1000冊の記憶

1000冊以上本を読むともう内容が曖昧になってくるのでちゃんと感想を残します http://booklog.jp/users/f_t812

A・キンブレル(著) 福岡伸一(訳)「生命に部分はない」

  • 選書のきっかけ
     「世界は分けてもわからない」「生物と無生物のあいだ」と福岡伸一先生の本を読んでみたところとても面白かったので訳書ではあるけど、これも読んでみる。

  • 所感
     人間の体を部品として売り買いする様が、その歴史から今に至る過程まで様々な事例とともに幅広い分野から描かれており、色々考えさせられることが多かった。本書が特に読みやすい理由の一つとしてまず上げておかなければならないのは福岡伸一先生の翻訳のうまさにあると思う。一般的な翻訳本といえば、ぎこちない日本語が散りばめられており、時として元の英文がそのまま浮かんでくるような直訳に近い文章も少なくはない。しかしながらこの一冊は、最初から最後まで元の英語が思い起こされるような文章は一文もなかった。それどころか訳書ではなく原書が日本語だと言われればそのまま信じてしまいそうなくらいであった。
     さて当の所感としては、とても参考になる知識量の多いぜひ読むべき本だと思った。人体を部品とするようになった背景・歴史から機械論、市場原理によるその必然性まで丹念にわかりやすく描かれている。また重要なことに著者は体を部品扱いすることは終始反対の立場をとっているものの、根拠のない感情論的な反論は一切見られない。どのような意見にしてもメリット・デメリットが列挙されており公平な立場から文章を構成し、最終的に自らの意見がまとめられておりどちらの立場をとる人でも受け入れやすい内容になっていると思う。
     昨今のAIブームにおいて遺伝子工学の分野は先のiPS細胞のノーベル賞以降ややその話題を奪われた感はあるが、それにしてもこの本から学ぶことは今あえてとても多いと思う。無知な大衆の過度な期待とそこから金を集めるための市場原理による誇大な記事・発言の横行。まるで今の人工知能熱をそのまま反映しているかのような内容だと思う。
     我々は今一度、市場原理や機械論といった人のバックグラウンドになっている現象について冷静に目を向け、自分自身に謙虚になって物事を見つめ直す必要があるのではないだろうか。

  • -メモ
     司馬遼太郎先生は歴史を理解するということはただ断片的な情報を集めるのではなく、その時代の空気を感じる事だと、そんなことをどこかで書いていた気がするが、福岡伸一先生も似たような思考をお持ちのようで体を部品として見ても生命を理解したことにはならないというのはある種の教訓めいていて自身の考え方を今一度見直そうというきっかけを与えてくれる。
      体に現れる不具合はその部分の故障というよりは体全体の動的平衡の乱れの結果がその部分に現れているに過ぎないという考え方も自分の思考方法に応用できる気がする。もっと別目線を手に入れられるかも。
     この本を読んで考えるべきなのは"生命とは何か"という根源的な謎を明らかにすることではない気がしてきた。謎であるならそこには当然解が存在するはずである。人間と他の動物、または生命との構造的な比較によって人間たらしめているものを明確に定義できた時、それを"人間"と定義しそこから外れるものを人間でないと考えることができるはず、だと思っていた。けれどそれでは一軸足りていない。もう一つ、生死を定義する必要がある。人間は食物連鎖の中で他の生命を食すことで生きてきたが、どうやら最近はその道を踏み外して、生死の枠組みの中で生の範囲外にある状態をも生きてく糧にしているらしい。だが、人間の終点は死という分岐点があるのに対し、生の始まりなどいつ人間になったと定義できるのか。そんなの不可能だろう。幼児ならまだしも胎児についてその生がいつから始まるのか、いつ人間となるのかなどもはや正解の存在ではなく単なる解釈の域を出られないだろう。だとすればそれはきっと人間自身が胎児をいつから人として認識するか、によるしかないのではないか。当然そこには個人間で認識の差異が発生する。個人間に止まらず、世代の差異も発生する。おそらく統一の価値基準など作れないし、個人的には自分の体から片割れと言えど分身したものを人間でないなどと思い切ることなど、最初からできそうにない。
     何を生命と思うか、についてそもそも多数決のような決定方法で良いのだろうか。特に胚についての認識はある一定の解釈の基で話をするよりも当人同士がどう認識しているのか、どうしたいのかというところにある一定の価値基準を認めても良いのではないだろうか。
     おかしな話だ、裁判で赤ちゃんを商品扱いするかが問題か。すでに女性を妊娠するだけの器としてビジネスにした人間とそれを依頼、請け負った人間全てがおかしいだろう。親権などというものがある時点ですでに子供は所有物化してしまっているのに根本を変えない限り何も変わらないだろうな。
     検査で判定されていたらアトピーで20年以上苦しんだ僕は産んでもらえなかっただろうなぁ。治った今から考えると拷問のようだった20年を経て果たして本当に産んでもらってよかったのかどうかは疑問だし、そんなことに答えなどないけど、それでも思うのは人はそんなに単純なものじゃないからいつ何時価値観が変わってしまうかわからない。子供を授かるわずかな期間の趣味・嗜好・価値観で子供を選別するなど後々自分を苦しめるだけだろうに。
     障害のある人のことをかわいそうだとか、両親の損害だとかいう人間は一度吉田松陰留魂録を読んだ方がいい。「十歳で死ぬものは十歳のあいだにおのずと四季がある。二十歳で死ぬものは二十歳のあいだにおのずと四季がある。(中略)十歳をもって短いというのは、ひぐらしを長生の霊木にしようと望むことである。」
     遺伝子工学の世界でも期待だけ先行して中身が誇大広告になっている例が色々あるらしい。昨今の人工知能の分野見ても、どこもそんなに変わらないと思う。はっきり言って今の人工知能はブームで終わるだろうなと思っている。この先人の仕事を奪うこともないだろう。ある程度補助ができるとか、見落としがちな部分を正確に見つけ出すとかは得意だと思うけど、結局最後は人間が介在しない限り仕事としては成立しないだろう。何よりも手法ありきのビジネスが目に余る。データに手法を合わせずに手法にデータを合わせているようなものが散見される。それはそれで悪いことだとは思わない。工学的な観点から言えばその方がアプリケーションとしては完成が早くなるだろうけど、データが本来持っているポテンシャルを使いきれないだろうし、何よりも面白そうじゃない。
     クローン化技術の話についても夢物語が先行して今の人工知能ブームと同じ匂いがする。
     人は自らの手で優れた新人類に進化することはできない。天才を認識できるのは天才をおいて他にいない。我々は常に次のステージに進もうとはしている。しかし自らそうなるにせよ、人工知能で人を超えた存在、超知能を生み出すにせよ、どちらも不可能だと思う。なぜなら新たに出現したそれを、人類を超越したものだと評価できる術を持っていないから。せいぜい異常者だとか障害者として片付けてしまうのがオチだろう。
     機械論と市場原理、著者はこの二つが生命の商品化に繋がったと考えているが、果たしてそれだけだろうか。改めて立ち止まって考えてみる、自分と生命を分け合った胎児がまだ胚の状態であれ、その障害が認められたとして、その体が実験試料として使われるとなったらえも言われぬイヤな感じはしないだろうか。このいわゆる実体験、想像力の欠如こそが生命の商品化に拍車をかけてはいないだろうか。ありとあらゆる情報が波のように押し寄せては消えていく社会、情報もほとんどが2次元の中に収められていて、視覚・聴覚の情報のみでその場の空気・雰囲気も感じられない中で様々なことが決定されていく社会。この実体験の乏しさと、実際に体験するよりも格段に情報量が少なくなっていることにすら気づけていないという事実。これこそが生命の商品化の源ではないだろうか。
     遺伝子というものは実のところ人をどこまで規定しているものなのか非常に気になる。これまでもこれからも遺伝子学の動向としては優生学では特にDNAが全てを決定しているような風潮を感じるけど、では先天性とか後天性はDNAに全て情報が載っているものだろうか。情報転機のミスとかいくらでも能力差など出てきそうなものだけど。
     市場原理とは一体なんなんだろう。人間の欲の顕在化だろうか。それとも留まることの知らない探究心への挑戦だろうか。市場原理は人間の意思の現れだと思う。けれど間違っていけないのは決して人間全体の意思の現れではないということ。市場原理の中に全体のバランスを取ろうとか、将来的には今回り道をした方が良いという意図は出てこない。それは全ての意思は人間個人個人の総和に過ぎないから。全体でバランスを考えた判断もしていなければ、近しい人間の意見が反映されていることもないだろ。そんな中で人は判断を間違えないと誰が言えるだろう。