1000冊の記憶

1000冊以上本を読むともう内容が曖昧になってくるのでちゃんと感想を残します http://booklog.jp/users/f_t812

福岡伸一「生物と無生物のあいだ」

  • 選書のきっかけ
    「世界は分けてもわからない」がとても魅力的な文章で描かれている科学系の本だったのでこの著者の本をいくつか読んでみる。

  • 所感
     この著者の書くものを読むのはまだ2冊目だけど、どちらも科学系の書物なのにとても文学的な表現に溢れていて、物語のごとく細胞のメカニズムが描かれている。まるで小説を読んでいるかのように読みやすい。今読み慣れた本を離れて新たな分野にチャレンジしてみたい読書家がいたらきっとこの著者の作品を紹介するだろう。きっと科学系の堅い内容が苦手な読者にも、文学が苦手なフィクションを好む読者にもちょうどよく平衡が取られていると思う。
     タイトルこそ生物と無生物のあいだとなっているが、この本はそんな枠組みに収まるスケールの内容ではなかったと思う。エントロピー増大の法則の中で、その法則をも取り込んだ秩序の中に生命という現象が現れ、そのまま我々人間として行動・思考しているという話は自分の存在の危うさと共に生きていることに対する神秘性をより深められるものだった。エントロピー増大の法則の存在自体にも疑問はあるが、その法則の中でなぜ秩序というものが存在しているのか。まるで誰かの意思でも働いているかのような錯覚にさえ陥りそうになる。それがもし偶然の産物なのだとしたら、遺伝子の欠損に対する許容度とは一体なんなのだろう。生命は生きることを目的として生かされているとしか思えないような柔軟性を細胞は持っている。これも人間の解釈が見せる幻想に過ぎないのだろうか。だとしたらそんな幻想を抱かせるまでに知能が発達した理由はなんだ。もちろん理由などないのかもしれない。ビリヤードのタマの動きのように原子の衝突の連鎖が産んだ偶然なのかもしれないが、それにしてはこの世界で生き抜くための準備が母親の体内にいる時分から用意周到すぎるほどに用意され過ぎてはいないだろうか。自然淘汰による進化を前提に考えた時に果たして生物はここまでの許容度を細胞レベルで可能にする必要があったのか。だとすれば今自分が思っている以上に生存競争は過酷で果てしないものだったと思いは巡るばかり。  とりとめのない感想はいつまで経っても思考は発散するばかりだし、妄想の域を出ないのでこの辺りにして、次の作品に進むことにしよう。

  • –メモ
     動的平衡、絶えず破壊と複製を繰り返すことによってあたかもそこにずっと存在してるように思われるものの、実際それを構成している物質は入れ替わり続けている。壊された部分をずっと自己修復し続けることによって動的平衡が保たれているのはなんとなく感覚に合うけれど、壊れそうなところを先に自ら壊して修復するというのはなんとなく理解しづらい。壊れたことがわかってから修復するのでは間に合わないのだろうか。それとも生物が自らエネルギーを作り出すプロセスの時間と工程に関係しているのだろうか。
     動的平衡。言い換えると状態とか現象だろうか。生命という存在も一時的な現象に過ぎない。そんな感じかな。でもだとしたらなぜ人は自我を持つのだろう。自我とは物質ではなく、信号の流れの秩序に過ぎないのか。もしかしたら体内で分子が変化するときにでる余分なエネルギーの揺らぎに過ぎないのかもしれない。
     エントロピー増大の法則をそれに抗おうとする秩序。その中間にあるような相補性。なぜエントロピーは増大しようとするのだろう。それとあたかも相補性をなすような秩序とはなんだろう。思考・自我・人間という現象はエントロピー増大の中に入り込もうとした秩序の果ての姿のように思えてならない。
     ずっと生命はビリヤードのタマが連鎖的に衝突を繰り返して動き回るように偶然と必然の産物で出来上がっているものだと認識していましたが、その認識は少し改めた方が良いみたいだ。"動的平衡"この言葉に込められた意味を再認識させられるのに、狂鼠病の話はとてもインパクトがあった。時間すなわち成長の過程で生命は動的平衡を常に保ちながら次のステップに移行しており、大人のマウスが持っている遺伝子情報をわざと消して、生まれた時からその情報が欠落していたとしても動的平衡が保たれればちゃんと成長できるという。これが真実なのだとすれば自分の認識していた生命はとても薄っぺらなものだと言わざるを得ない。生命はただビリヤードのタマが弾かれた結果などではなく、その後ろに二重三重にもプロテクトされた生き残るためのプロセスを備えているらしい。

生物と無生物のあいだ (講談社現代新書)

生物と無生物のあいだ (講談社現代新書)