1000冊の記憶

1000冊以上本を読むともう内容が曖昧になってくるのでちゃんと感想を残します http://booklog.jp/users/f_t812

半藤一利 佐藤優「21世紀の戦争論」

  • 選書の理由
     池袋のジュンク堂書店で偶然見かけたので購入。本来は半藤一利氏の「文士の遺言」か立花隆氏の著書でも買おうと思っていたが本を手にとってみたところ今ひとつピンとこなかったのでこちらを購入。
  • 書評
     面白かった。日露戦争後から現代まで続く日本という国の体質がよくわかった。戦争はいやだと一度は決別を宣言しておきながら、今再び戦争ができる国になろうとしている姿は、まさにこの国の空気がそうさせているのではないだろうか。もしそうだとしたら、この国の歴史がまさに示してきたように止められるものではないだろう。日本人は、人間はきっと何も学んではいない。色々なことを前の世代から受け継がず、字面を追ってただ忘れているだけだ。
  • -メモ
     歴史から何かを学ぶということについて、やはり失敗から何かを学びとることが重要だと思った。特に今回の内容ではノモンハン事件について失敗と捉え徹底的に調べたソ連と何もしなかった日本の差は最後敗戦という形で大きく現れたように、日々の仕事にもこれは適用できると思う。何もしなければ次々変わっていく業務をこなしていくだけになってしまうが、何がダメで何が良かったのかは失敗したものこそ徹底的に洗い出すべきだろうな。
     カイロスとクロノス、自分にとってのカイロスアトピーがある日突然治った23歳の夏の日です。
     佐藤優の話にはちょっと誇大妄想的な部分があるように思う。安倍晋三の「一億総活躍社会」は今の日本の人口から考えたら残りの3千万人には自分たちで何とかしてくれという意図が含まれてるとか、もう全く荒唐無稽でわけがわからん。知識の詰め込みすぎで頭おかしくなってないか。

立花隆「がん 生と死の謎に挑む」

  • 選書の理由
     久しぶりに立花先生の本を読んでみたくなったので購入。久しぶりだったので自分が医療系の話に弱いの忘れていた。電車の中とか外では読めない。貧血起こして倒れるかもしれない。
  • 書評
     著者が冒頭で説明しているが、本書はNHKで放送された番組の原書的な内容である。従って今回放送を見ないまま読んで見たものの、若干のわかりにくさはあった。
     内容としては第一章で番組を作成するにあたって行われた取材内容がメイン、第二章として著者のがん手術体験がメインとなっている。第一章では番組の宣伝が多くを占めているものの、がんとは何なのかから始まりその根本治療の難しさ、ひいては人生とは何なのかとう所まで実際のがん患者へのインタビューを交えて展開されており非常に考えさせられる。
     第二章では著者が実際ががんの宣告を受けるところから、その時の心境に至る原因まで描写されており手術の方法から心境の変化まで非常に詳細に描かれている。しかしながら描写が詳細すぎる故、心的な気持ち悪さを覚えてしまい手術部分はじっくりと読むことができず文章の表面部分を飛ばし読みしながら何とか内容だけは追っていった。それぐらい精密な描写だったと思う。。  
  • -メモ
     がん細胞のメカニズム、しぶとさを知るに連れてもはやがん細胞は細胞単体として進化した形ではないかとさえ思えてくる。人間という生き物が細胞ひとつ一つではなく、その集合体として情報での価値を持っているのに対してがんは細胞ひとつひとつが価値を持っているものだとしたら細胞のがん化は細胞それ自体としては進化したとみて良いだろう。ようやく人間、生物という情報体から生きることを奪い返したともみられなくはない。
     第一章の終わりで生きる、生命とは何かということを考えさせられた。先の福岡伸一先生の著書のような生命科学的な生命ではなくて人が生きていく人生とは何なんだろうと思いを馳せずにはいられなかった。今自分は自分の人生に終わりがあるのだということを単純な知識としてしか受け止められていない。これがもし病気にかかってあと何日の命ですと言われたら、まず間違いなく今のこの心境には戻ってこられないことだけはよくわかる。

赤坂真理「愛と暴力の戦後とその後」

  • 選書の理由
     まとめアプリで紹介されているのを見て購入。新宿のbook1stにたまたまあったから購入したが、もしなかったら買っていなかったかもしれない。
  • 書評
     論理展開よりも著者の感情が全面に出ていて非常に読みにくかった。思いつきをメモに残していって、そのメモに適当な推測とほんのちょっとのリファレンスつけてる程度の内容だった。揚げ足をとるわけではないと言いながら漢字一文字の意味に異常に固執して、意味がわかってないからけしからんと、何を言いたいのか最後まで理解できなかった。結局、私が見てきたアメリカ凄い、日本遅れてる、的な田舎者の丸出しの本に思えた。

  • -メモ
     出だしが文学的だったのが逆に戦後?高度経済成長期?の暗闇を見せつけられるようだった。人の闇、社会の闇をどう人間の心が処理したのか、単にそれは見えているはずなのに見ないようになっていただけだった、という始まりは内容にどう反映されているのかちょっと楽しみ。
     著者が学生時代に何のトラウマを植えつけられたのか知らないけれど、相当に根の深いものを感じる。”現代日本語はキメラでいくしかない”言語なんてどれも相応にキメラめいているでしょうに。自分が感じた劣等感をそのまま日本人に投影している感がすごい。

甲野善紀 養老孟司「古武術の発見」

  • 選書の理由
     まとめアプリに出ていて気になったので購入。養老先生の最近の著書はあまり好きではないけど本書は結構前のものなので期待。

  • 書評
     あまり読んだことのない内容の本だった。基本的には身体と精神の話で現代の日本人がいかに身体を意識の外に置いて精神すなわち心を重視しているかという警告だった。これと同じテーマは奈須きのこ氏の「空の境界」という小説でも描かれている。
     しごきや何も考えずにただ反復練習させられる修行が行われる理由は納得感があり非常に参考になった。身体が何かを体得するということは言葉で伝えられるものではないので結局その人だけのものになりがちである。そうすると武道の流派において二代目以降や師範は体得できているかも怪しいから教えられることがない。すると何をしていいかわからなくなるから、結果的にわかりやすいしごきや反復練習の強制ということになる。そして本当に理解している人間ならばそういう方向には行かずに後輩との共同研究という道に進んでいける、らしい。
     内容的には難しくて一度読んだだけではおそらく半分も理解できていないが、それこそこれ以外の本を理解しているという錯覚に基づいていて感知しているだけなのかもしれない。とすると本書でも挙げられていたが、もっと身体の知覚というものを意識してそれを研ぎ澄ませるように修練することには価値があると思った。

  • -メモ
     江戸時代に身体というものが意識されなくなり、では身体はどこへ行ったかというと武術の中に入って行ったらしい。
     道州制の話が出てきたが、今の県の大きさが人が一日に歩ける範囲だったのではないかという話はとても興味深かった。
     日本人の特徴というか海外の人間は言葉を重視して言語化できないものは存在しないという考え方、対して日本人は言語外のものを重視して、言語にできないものをむしろ積極的に認めている。言わなくてもわかってくれるとか。これは確かになるほどと思って面白かった。このような精神の上に西洋の文化を上塗りしている今の日本は非常にアンバランスな状態にあるのではないだろうか。でもそれは海外の文化を特に抵抗なく吸収してしまう日本人の特製の一つである。
     小脳はオートでの動き、大脳はマニュアル的な動き。スポーツが基本的に動きをオートにすることを目的としているとしたらプロのスポーツ選手は小脳が発達しているのだろうか。それとも大脳の機能が弱くて相対的に小脳が優位に立っているのだろうか。何れにしても想像するとなんか怖い。
     ”頭も感性もフルに動員してやるものなのだということがわかってくれば、後輩をしごいたりするより、後輩を心身ともにいい状態にしておいて、共同研究をしていくような形に自然になるはず何ですね。”その通りだと思う。教えるという立場よりも一緒に学んでいく立場を取ったほうが双方にメリットが大きい。
     ”広沢は考えない、池山は考えたことがない、長嶋に至っては、考えるというのはどういうことかもわからない、”何これ。
     養老先生の江戸時代の人の自分の捉え方の話はとても興味深かった。身分制度が安定しているから、自分の中の我よりも他人の中の自分、社会の中の自分がどういう存在なのかが重要で、皆それをきちんと理解していたと。だから本居宣長は他人が見る自分の墓を詳細に指示している。その反面、我が支配している現代では自分を理解しているのは自分だけだから墓はいらないという発想になる。どちらが正解ということもないが、とても怖いのはどちらも正解と思えない状況だ。他人の中の自分、自分の中の自分、どちらかを正解を思えるならば、それはそれで安定した状態だと思う。だが、どちらが正解なのかわからない状態ではそれはとても不安定だ。結局自分とは何なのか、わからない。現代は我というよりも、自分とはとどのつまり何なのか、根本的な疑問を暗に心のうちに宿している人が多いのではないだろうか、社会が安定していた江戸時代の人と比べて。

畑村洋太郎「技術大国幻想の終わり」

  • 選書の理由
     まとめアプリで見かけたので買ってみた。日本が技術大国だった時代などとうの昔に終わってる感がしているのと、こういう否定的できつめなタイトルの本って重箱の角つつくような批判ばかり繰り返して中身が伴ってないことが多いのでちょっと不安。

  • 書評
     読む価値なし。ものすごく薄っぺらな本です。根拠に乏しいし、伝聞そのまま書いてる内容もあるし。初学者のとっかかりぐらいの価値しかありません。あえて平易な内容で書いて共感者を増やそうということなのかも。10ページ目ぐらいから早速飛ばし読み。
     多分ウィキペディアとかで断片的な知識仕入れて作文書くとこんな本が出来上がるんだろうなというぐらい薄っぺらい。”だろう”、”聞いた”、”らしい”がかなり多くて、自分の体験したことではない。著者は日立の出身らしくメーカー的な立場で色々ものを言っている。その中で突然システムエンジニアの話が飛び出した時には驚いたが、おそらく著者の頭の中にはソフトウェアエンジニア = システムエンジニアとでも思っているんだろう。”なんちゃってSE”とか自慢げに名付けていたけど、ただのコーダーのことだから酷い有様だった。
     日本を技術立国だと思っている人がいると思ってること自体がすでにかなりの時代遅れだと思う。今の時代本気でそんなこと危惧しているのはこの著者世代の老害ぐらいだろう。
     著者の経歴が一旦企業に入ってから大学に戻ったらしいが、そのせいで中途半端に知ってる気になってしまっているのだろう。中国は人件費よりも市場としの価値はまだあるとか、何を言っているのか全くわからない。未だに日本と比べれば人件費は安いので中国での生産は続くだろう。
     時間の無駄だったのでさすがに途中から完全に飛ばし読みで終えた。

  • -メモ
     なんかあたかも企業を一人の人間のように扱って昔は謙虚だったのがいつのまにか傲慢になった的なことが書いてるが、単に企業内の人間が代謝して考慮すべきことを知らない人間が増えただけかもしれない。何を根拠に傲慢になったと言っているか注意深く読んでみると断片的な知識や憶測にすぎなくて非常に傲慢なことがわかる。  答えがないから20年迷ったとかほざいてるけど、答えがないんだから、それがあった50年よりも時間がかかっているだけのことだろう。
     ”デジタル化がもたらした生産のモジュール化”ですって。意味不明。
     第二章の冒頭”価値”についての話は最初読む価値があるなと思ったが、途中から方向がおかしくなって研究にお金費やすことにダメ出しし始めたところで読んでも意味ないと思い始めた。

伊東乾「人生が深まるクラシック音楽入門」

  • 選書の理由
     まとめアプリに出ていたので気になって購入。30万のオーディオ機器1セットは持っていても、クラシックはこれまで何回かチャレンジして見ても、未だに良いと感じられていないので方向性を変えて知識の面から興味が持てるか試して見る。
  • 書評
     とても面白い本だった。ただ注意点はこの本を読んだからクラシックを聴きたいと思うようにはならないということ。この本を読むべき人はクラシックを聴きたいと既に思っているけど、何から聴いて良いかわからない人、もしくは昔クラシックを聴こうとしたけど挫折してしまった人。学校で習う人物名とか曲名ではピンとこなかった歴史や派の違いがわかりやすく説明されているので、この時代の曲から聴いてみようか、とか、これとこれを対比して聴いてみるのが面白いかもしれないといったとっかかりの示唆を与えてくれます。
     この本を通じてわかったことは結局クラシックを聴くようになる為には好きな曲なり演者なりを見つけることだなと思ったんですが、それをするに当たってじゃあ誰の曲を聴いてみようだとかまず手始めにCDを買おうなのかyoutubeで検索してみようかなのかがわかります。
     またクラシックというものは録音技術がない時代から存在している為、基本的に昔の曲はホールで演奏されることが前提で作られているとうのも面白かった。確かに壁や天井での反響まで考慮に入れて曲が作られていたらそれはオーディオ装置のステレオで再現するのは無理だろう。いわゆるオーディオマニアという人はCDの音を忠実に再現するのに躍起になっているが、そもそもCDが本物を再現できない、今のハイレゾでも解像度が上がっているだけで反響音や残音までは再現できていないだろう。じゃあ何を必死こいて電柱まで立てているんだろう。
     最後に、この本を読んでよかったと思ったのは最終章の耳の聞こえなくなったモーツァルトが何を聴いていたのかって話。確かに耳が聴こえなくなっても自分の声は聴こえる。楽器の音は聴こえなくなっても自分の声だけは聴こえてる。こう言ってはなんだけど、モーツァルトは耳が聴こえなくなってからの方が自分の身体に刻まれている音楽がしっかりと聴こえるようになったのではないだろうか。バガボンドで小次郎が誰よりも自分と対話する時間を持っていたように。

  • -メモ
     学生の頃の音楽の授業なんてわけわかんなくて大嫌いだったけど、今改めて古典派とかロマン派とか聞くとちょっと面白いと思った。昔習ったはずなのに名前を聞いたことあるくらいの知識しかない。あとカタカナは病的に覚えられないので人名は諦める。
     「ソナタ」って何のことか興味すら持ってなかったけど音楽のスタイルの一種だったんですね。要するにパターンの一つなのか、起承転結みたいな。じゃあ「冬のソナタ」って一体何なんだ…
     ピアノ・フォルテの話とか面白い。ピアノがかなり大きくクラシックというか音楽の可能性を広げたのか。たたき方によって音に強弱つけられるのがそんなに重要だったとは全く知らなかった。スピーカの話も面白い。特に電気的なエネルギーを使うのと違って人間は大きな音が出せないから色々工夫しているという話。チェロとかコントラバスのエンドピンって楽器支えてるだけじゃなくて床を反響の為に使おうっていう発想だったのね。考えた人天才か。
     会場で生の演奏を聴くということとCDでスピーカを通して聴くということではその聴こえ方が全く違うらしい。特に反響音まで考慮に入れて曲が作られているというならばその違いは明確だろう。技術に興味のある人間としては、だとしてもスピーカから反響音まで含めて再現する方法はないのかという方向に行ってしまうわけだが。
     ”ここに、身体に刻み込まれた音楽があります。自分で歌うことができなければ、音楽に魂がこもらない。固有の歌がなければ、たとえ楽器は鳴っていても、ただの「音出し」にしかなりません。”これはとても重みのある言葉。楽器で音を出せばあたかも音楽のようになる。でも本当の音楽は自分の中から流れ出てくる音を表現しなければいけないということか。

「僕たちが何者でもなかった頃の話をしよう」

  • 選書の理由
     ニュースキュレーションアプリに出てきたのと以前書店でよく見かけていたので思い切って購入。新宿のbook1stを探したがなかったので神保町の三省堂で見つけた。

  • 書評
     タイトル通り数人の先生方が苦労話をしてくれる本だったが、何者でもない頃の話はあまり出てこなかった。形式としてそれぞれの先生の後援会の内容が前半に、後半は著者との対話で内容が展開していった。  全体的にははっきり言うと物足りない。新書に無理やり4人ぶんの話を盛り込んでいるから当然かもしれないが、普段小説などで本を読んでいる人間にはちょっと薄っぺらく物足りなさを感じるだろう。ただ一人一人の先生方はとても著名で面白い話を色々持っていそうな方々だったので、本書を導入と捉えて、別途一人ずつ一冊の本を出して欲しいぐらいだった。

  • -メモ
     はじめにの部分にも書いてあるが講演会の内容を本にしたものなので、若干味気ない。福岡伸一先生の著書を読んだ時のような情熱までは中々伝わってこない。お手軽感のある新書だから仕方のないことなのかもしれないけれど、こういう本を読むとやっぱり重厚で内容のある本を読みたくなる。精神がバランスをとっているらしい。
     「でも基本的にはサイエンスの喜びっていうのは、誰かとディスカッションして、こんな可能性もある、あんな可能性もある、といろいろな可能性を見つけていくことに大きな意味があるのではないかと思うんです。」これ、ディスカッションしながら可能性を見つけていく作業はほんと面白い。特に自分がディスカッション内容の大半をちゃんと把握している時には。ここで面白そうな仮説が見つかったりするともう目も当てられないくらい研究に没頭したくなる。
     2人目の羽生さんと3人目の人が同じことを言っている気がする。レールの上に敷かれたものだけを見ていても面白くない。思いがけないこと予期していないことをする方が結果として面白くなる。これはあれか、1人目の山中先生の対談の部分でも同じような展開があったな。