1000冊の記憶

1000冊以上本を読むともう内容が曖昧になってくるのでちゃんと感想を残します http://booklog.jp/users/f_t812

伊東乾「人生が深まるクラシック音楽入門」

  • 選書の理由
     まとめアプリに出ていたので気になって購入。30万のオーディオ機器1セットは持っていても、クラシックはこれまで何回かチャレンジして見ても、未だに良いと感じられていないので方向性を変えて知識の面から興味が持てるか試して見る。
  • 書評
     とても面白い本だった。ただ注意点はこの本を読んだからクラシックを聴きたいと思うようにはならないということ。この本を読むべき人はクラシックを聴きたいと既に思っているけど、何から聴いて良いかわからない人、もしくは昔クラシックを聴こうとしたけど挫折してしまった人。学校で習う人物名とか曲名ではピンとこなかった歴史や派の違いがわかりやすく説明されているので、この時代の曲から聴いてみようか、とか、これとこれを対比して聴いてみるのが面白いかもしれないといったとっかかりの示唆を与えてくれます。
     この本を通じてわかったことは結局クラシックを聴くようになる為には好きな曲なり演者なりを見つけることだなと思ったんですが、それをするに当たってじゃあ誰の曲を聴いてみようだとかまず手始めにCDを買おうなのかyoutubeで検索してみようかなのかがわかります。
     またクラシックというものは録音技術がない時代から存在している為、基本的に昔の曲はホールで演奏されることが前提で作られているとうのも面白かった。確かに壁や天井での反響まで考慮に入れて曲が作られていたらそれはオーディオ装置のステレオで再現するのは無理だろう。いわゆるオーディオマニアという人はCDの音を忠実に再現するのに躍起になっているが、そもそもCDが本物を再現できない、今のハイレゾでも解像度が上がっているだけで反響音や残音までは再現できていないだろう。じゃあ何を必死こいて電柱まで立てているんだろう。
     最後に、この本を読んでよかったと思ったのは最終章の耳の聞こえなくなったモーツァルトが何を聴いていたのかって話。確かに耳が聴こえなくなっても自分の声は聴こえる。楽器の音は聴こえなくなっても自分の声だけは聴こえてる。こう言ってはなんだけど、モーツァルトは耳が聴こえなくなってからの方が自分の身体に刻まれている音楽がしっかりと聴こえるようになったのではないだろうか。バガボンドで小次郎が誰よりも自分と対話する時間を持っていたように。

  • -メモ
     学生の頃の音楽の授業なんてわけわかんなくて大嫌いだったけど、今改めて古典派とかロマン派とか聞くとちょっと面白いと思った。昔習ったはずなのに名前を聞いたことあるくらいの知識しかない。あとカタカナは病的に覚えられないので人名は諦める。
     「ソナタ」って何のことか興味すら持ってなかったけど音楽のスタイルの一種だったんですね。要するにパターンの一つなのか、起承転結みたいな。じゃあ「冬のソナタ」って一体何なんだ…
     ピアノ・フォルテの話とか面白い。ピアノがかなり大きくクラシックというか音楽の可能性を広げたのか。たたき方によって音に強弱つけられるのがそんなに重要だったとは全く知らなかった。スピーカの話も面白い。特に電気的なエネルギーを使うのと違って人間は大きな音が出せないから色々工夫しているという話。チェロとかコントラバスのエンドピンって楽器支えてるだけじゃなくて床を反響の為に使おうっていう発想だったのね。考えた人天才か。
     会場で生の演奏を聴くということとCDでスピーカを通して聴くということではその聴こえ方が全く違うらしい。特に反響音まで考慮に入れて曲が作られているというならばその違いは明確だろう。技術に興味のある人間としては、だとしてもスピーカから反響音まで含めて再現する方法はないのかという方向に行ってしまうわけだが。
     ”ここに、身体に刻み込まれた音楽があります。自分で歌うことができなければ、音楽に魂がこもらない。固有の歌がなければ、たとえ楽器は鳴っていても、ただの「音出し」にしかなりません。”これはとても重みのある言葉。楽器で音を出せばあたかも音楽のようになる。でも本当の音楽は自分の中から流れ出てくる音を表現しなければいけないということか。