1000冊の記憶

1000冊以上本を読むともう内容が曖昧になってくるのでちゃんと感想を残します http://booklog.jp/users/f_t812

福岡伸一「生物と無生物のあいだ」

  • 選書のきっかけ
    「世界は分けてもわからない」がとても魅力的な文章で描かれている科学系の本だったのでこの著者の本をいくつか読んでみる。

  • 所感
     この著者の書くものを読むのはまだ2冊目だけど、どちらも科学系の書物なのにとても文学的な表現に溢れていて、物語のごとく細胞のメカニズムが描かれている。まるで小説を読んでいるかのように読みやすい。今読み慣れた本を離れて新たな分野にチャレンジしてみたい読書家がいたらきっとこの著者の作品を紹介するだろう。きっと科学系の堅い内容が苦手な読者にも、文学が苦手なフィクションを好む読者にもちょうどよく平衡が取られていると思う。
     タイトルこそ生物と無生物のあいだとなっているが、この本はそんな枠組みに収まるスケールの内容ではなかったと思う。エントロピー増大の法則の中で、その法則をも取り込んだ秩序の中に生命という現象が現れ、そのまま我々人間として行動・思考しているという話は自分の存在の危うさと共に生きていることに対する神秘性をより深められるものだった。エントロピー増大の法則の存在自体にも疑問はあるが、その法則の中でなぜ秩序というものが存在しているのか。まるで誰かの意思でも働いているかのような錯覚にさえ陥りそうになる。それがもし偶然の産物なのだとしたら、遺伝子の欠損に対する許容度とは一体なんなのだろう。生命は生きることを目的として生かされているとしか思えないような柔軟性を細胞は持っている。これも人間の解釈が見せる幻想に過ぎないのだろうか。だとしたらそんな幻想を抱かせるまでに知能が発達した理由はなんだ。もちろん理由などないのかもしれない。ビリヤードのタマの動きのように原子の衝突の連鎖が産んだ偶然なのかもしれないが、それにしてはこの世界で生き抜くための準備が母親の体内にいる時分から用意周到すぎるほどに用意され過ぎてはいないだろうか。自然淘汰による進化を前提に考えた時に果たして生物はここまでの許容度を細胞レベルで可能にする必要があったのか。だとすれば今自分が思っている以上に生存競争は過酷で果てしないものだったと思いは巡るばかり。  とりとめのない感想はいつまで経っても思考は発散するばかりだし、妄想の域を出ないのでこの辺りにして、次の作品に進むことにしよう。

  • –メモ
     動的平衡、絶えず破壊と複製を繰り返すことによってあたかもそこにずっと存在してるように思われるものの、実際それを構成している物質は入れ替わり続けている。壊された部分をずっと自己修復し続けることによって動的平衡が保たれているのはなんとなく感覚に合うけれど、壊れそうなところを先に自ら壊して修復するというのはなんとなく理解しづらい。壊れたことがわかってから修復するのでは間に合わないのだろうか。それとも生物が自らエネルギーを作り出すプロセスの時間と工程に関係しているのだろうか。
     動的平衡。言い換えると状態とか現象だろうか。生命という存在も一時的な現象に過ぎない。そんな感じかな。でもだとしたらなぜ人は自我を持つのだろう。自我とは物質ではなく、信号の流れの秩序に過ぎないのか。もしかしたら体内で分子が変化するときにでる余分なエネルギーの揺らぎに過ぎないのかもしれない。
     エントロピー増大の法則をそれに抗おうとする秩序。その中間にあるような相補性。なぜエントロピーは増大しようとするのだろう。それとあたかも相補性をなすような秩序とはなんだろう。思考・自我・人間という現象はエントロピー増大の中に入り込もうとした秩序の果ての姿のように思えてならない。
     ずっと生命はビリヤードのタマが連鎖的に衝突を繰り返して動き回るように偶然と必然の産物で出来上がっているものだと認識していましたが、その認識は少し改めた方が良いみたいだ。"動的平衡"この言葉に込められた意味を再認識させられるのに、狂鼠病の話はとてもインパクトがあった。時間すなわち成長の過程で生命は動的平衡を常に保ちながら次のステップに移行しており、大人のマウスが持っている遺伝子情報をわざと消して、生まれた時からその情報が欠落していたとしても動的平衡が保たれればちゃんと成長できるという。これが真実なのだとすれば自分の認識していた生命はとても薄っぺらなものだと言わざるを得ない。生命はただビリヤードのタマが弾かれた結果などではなく、その後ろに二重三重にもプロテクトされた生き残るためのプロセスを備えているらしい。

生物と無生物のあいだ (講談社現代新書)

生物と無生物のあいだ (講談社現代新書)

福岡伸一「世界は分けてもわからない」

最近新書が出て書店の本棚で見かけることが多いのであえてちょっと前に出たものをチョイス。

 冒頭、プロローグからとても詩的な始まりで本当に科学系の本なのかと思うくらい人物にのめり込んでしまうところだった。まだ冒頭数ページだが文章から濃厚さが感じられる。  第1章は丸々詩的な感じで終わった。星の輝きを人間の眼球が捉えられる話などはとてもロマンチックだった。
 終始文章がとても文学的で科学系の本とは思えないような表現で満たされている。一つの動作・所作を表す表現がとても豊かでその動きがありありと眼に浮かぶようだった。
 途中から文章の様子が変わってきて物語じみた感じになっていって気づいたらある科学者の捏造の歴史になっていた。文章構成が突飛で小説・科学の両要素を見事なバランスで配分してあった。まるで著者の心情をそのまま文章にしたような印象を受け、物語として科学を、現在の人間の限界を、人間の探究心を、未知なものに対するアプローチを壮大なスケールから著者個人の願望まで"パワーズ・オブ・テン"で描かれているようだった。
 著者は須賀敦子という作家について評して、こんなことを言っている。"彼女の文章には幾何学的な美がある。柔らかな語り口の中に、情景と情念と論理が秩序を持って配置されている。その秩序が織りなす文様が美しいのだ。"この評を踏まえて、私がこの本の感想を書くと以下のようになる。この本の文章には一見バラバラでとても不安定なバランスの上に成り立っているような印象を受ける。美術品の話から著者の記憶、ある科学者の捏造事件へと話は次々に飛んでいき全体像だけ鳥瞰しようとすると捉え所がなくなってしまう。しかしよくよく考えてみると著者の一貫した意見、この本のタイトルにもなっている"世界は分けてもわからない"が、パワーズ・オブ・テンをキーワードにして語られているとても広く・深い読みがいのある本だと思った。

世界は分けてもわからない (講談社現代新書)

世界は分けてもわからない (講談社現代新書)

諸富祥彦「人生を半分あきらめて生きる」

まとめアプリで記事を見かけたので購入。特に何かを諦めるつもりもないけど、いつのまにかあきらめてしまわないようになれば良いなと思って読んでみる。

 何かをあきらめるためには何かに執着する必要があると思うけど、プロローグに上がっている例をみる限り作者自身があきらめたものと現代の若者があきらめているものって明らかに異質な気がした。あきらめる価値のあるものとそもそもあきらめるという言葉すら似つかわしくないどうでもいいものがあるだろう。仕事も、友人もそうだね。  本当にあきらめたいなら人生そのものをあきらめれば良い。人生をあきらめず他のものをあきらめているのなら、それはなんのためだろうか。生き残るためか。生き残ることになんの価値がある。苦しくても踏ん張って、頑張ってその先に見えたものに生きている価値はあるだろう。最初から生きるためにあきらめるというなら全てが矛盾している。生きながらにして生きていないような感じだ。
 まだ2章までしか読んでないのでこの後は違うかもしれないが、ここまでは兎に角書いてあることが薄っぺらくて嘘くさい。日本が将来財政的に破綻するだろうから絶望してる人間なんていないと思う。
 生きるために生きるためのテクニックを駆使する行為ってどうしてこうも気持ち悪いんだろう。吐き気がしてきそうだわ。税負担のための結婚の方がこの本の主張する生きるテクニックよりもよっぽど真っ当な気がする。
 この本はゴールが見えてしまったら面白くないと思うような人にはまったく価値のない本みたいです。普通に時間の無駄だったから途中から流し読んだ。

人生を半分あきらめて生きる (幻冬舎新書)

人生を半分あきらめて生きる (幻冬舎新書)

池谷裕二「進化しすぎた脳」

ニュースまとめアプリで見かけたので購入してみた。

 もともとどこかの部位を切除したとか、手術を施したとかいう記述が苦手なので若干苦労しながら読み進める。タイトルにある進化しすぎた脳という話は非常に興味深くて、脳に水が溜まるなどしていて生まれつき脳の容量が健常者の10分の1ぐらいの人でも全く健常者と変わらないのだとか。要するに人間の体を制御するためには今の脳は過剰な性能を有していて宝の持ち腐れ状態らしい。ということはなんのためにここまで脳だけ進化してしまったのかとても気になる。もし人に指が6本あったとしても問題なく脳は対処できるんだとか。ということは考えられる仮説としては、もっと昔の人間には個体のばらつきが大きくそれに対処するために脳を先に進化させたのだろうか。もしくは種の保存のために奇形に対処するために脳のおきな個体だけが生き残ったのだろうか。現代では人間個体のばらつきが小さくなったためその能力が過剰になってしまっただけなのではないだろうか。または今は5感までしかないセンサが大昔の人間にはもっとたくさんセンサがあったとか。例えばテレパシーの部類に入るような相手の考え・思考が読めたりする能力。同調なんかに近いものかもしれないけれど、そういったものをごく微小な他人のだす雰囲気、周りの空気から察する能力があったとか。いずれも言葉を獲得したことで退化した能力だったりするのかもなぁとか勝手に妄想してみた。
 人間が目を獲得したから世界が意味を持ったという話はなかなか理解できなかった、いや理解の前に納得できなかったけど電磁波が見えたらという話で妙に納得できた。もし電磁波が見えたら壁の向こう側が見えるようになるのでもう"見える"というか存在するの概念自体が変わってしまうのか。シュレディンガーの猫とか見えちゃったらもうお話にならんよね。
 "見る"という行為も能動ではなく受動か。さらに言えば何かを見て感情が揺れ動くのも受動だと思う。意識的に好きになったり、悲しくなったり、嬉しくなったりするのは偽物だろうし。そうすると意識とはなんなんだろうか。形成された感情を元に自分自身がどう行動したいかという判断を下す行為ぐらいしか意識と呼べるものは残っていないのだろうか。
 例えば人間以上の脳を持っているイルカはイルカ同士で言語体系のようなものを用いてコミュニケーションを取っているのかもしれない。人間以上の言語体系を有しているのかもしれない。でも人間との決定的な違いは、そういった異種とのコミュニケーションの可能性を探ろうとする意思だと思った。イルカは人間とコミュニケーションを取ろうとアプローチしてこない。してきているのかもしれないけど、集団として交渉するような場面には出くわさない。個体の意思ではなく集団の意思としてアプローチを試みるのは人間の脳だけだ。それになんの意味があるのか、きっと意味がない。異種の生き物とコミュニケーションをとることには意味がないと思う。そういう意味のない行為を許容できることがもっとも人間らしい振る舞いではないだろうか。人間だけが生きること以外のことを考える、執着する、無駄なことをする。そんな生物は他に知らない。
 "感情"ってなんなんだ。喪失感が生み出した悲しみ系のネガティブな幻影とそれとバランスをとるために生まれたポジティブな幻影に過ぎないのかしら。それとは別に、行き場のない感情というものも存在すると思っている。ホームシックの経験があればあれがまさにその感覚できっと不安を感じているんだろうけど、何もできない、泣けるものなら泣きたいけどそれすらできなくてただただ落ち着いていられない、部屋の中にいられずにあてもなく外に出ていって、夜が来ると落ち着くあの感情。脳の活動によって生み出された信号が行き場というか表現する言葉を見つけられずにただただ脳の中をさまよって消散するのを待っているかのようなあの感覚。
 環境や周囲の変化に対応するために人間は曖昧に記憶する、すげぇ説得力、目から鱗。ゆっくり学習するってのは学習終了期間がある程度長いって意味か。むしろオンラインでずっと学習し続けてやめることがないって思ってるんだけど。深層学習でもある一定確率で画像劣化させてそれも学習に使ったら精度上がったりするのかな。むしろそれがプーリングとかの技術か。。
 言葉が心を生んで、心が抽象化を導いた?もしこれが真なのだとしたら、言葉 -> 心 -> 抽象化 -> 言葉 というループが成立していると思う。そしてこのループがさらに高度な抽象化を可能にし複雑な心を創り上げたのではないだろうか。まぁ妄想に過ぎないけれど、だとしたら人間を人間足らしめるものはこのループ構造で心や抽象化能力などその結果・表層に過ぎないし実態としては存在しないものになる。だが、抽象化をここの脳が好き勝手に行ったら情報の伝達手段としての側面を言葉が失うことになる。抽象化の成功は他の個体とのコミュニケーションの可否に委ねられるはずでこれが評価方法なのだろう。ということはAIを人間に近づけるにはこのループを形成すれば良いことになる。しかしながら評価ができない。。複数のAIを分散的に学習させればそれらの間での評価は可能になるだろうが、それは果たして人間の知能を超越したものと言えるだろうか。全く別方向への進化・変化を遂げた人とは相入れない存在になるだけではないだろうか。ただ人の言葉をもつ人と別の生き物になるだけではないだろうか。それが人間を超越していると誰が評価できるだろう。。
 人間の記憶は劣化するというが、それは本当に"劣化"と評していいものだろうか。半分ぐらいまでこの本を読み進めるとそれすら疑わしくなってきた。ここまで進化した脳なのだから、同一であることを認識できるためにわざと抽象化してまで記憶しようとする脳なのだから、時系列の変化を可能性として含んだ記憶の仕方をしているのではないだろうか。もう完全に妄想話、人間は一度見ただけで記憶を停止しない。なんども自分の中で記憶を反芻する、その際に時間の経過による変化を可能性に考慮して記憶しようとする。すると時間が経つごとに情報が発散していき、意識の元に呼び起こそうとした際に再現できなくなったり最初に記憶したものとは大きく変質してしまっているのではないだろうか。
 そうかイオンの状態にすると濃度以外に電荷的にも均衡を保とうとするのか、面白い仕組みだな。どうやって折り合いつけてるんだろ。。
 シナプスでの物質の伝達が確率的ということは同じ動きをしようと思っても毎回確実に同じ動きができる訳ではないということか。運動系は伝達確率が高いだけで100%ではないのなら、一度として同じ動きができないのかもしれない。練習によって練度をあげるのは毎回きちんと伝達されるようにする訓練なのかと思ったけどもしかしたら確率的なばらつきを体に覚えさせる作業なのかもしれないな。あと思い出したくても中々思い出せない状況の時は何回も思い出そうとする行為が効果的ということだな。
 Cl-の話は深層学習でも実装されてるあえて学習サボる奴のことだな。シナプスの不確実さはその数の多さで補っているように思える。
 進化のプロセス・方向自体も自分たちで決めなければいけない時代か。そんなことに誰が責任持てるんだろうね。進化というかもう変化と呼んだ方がいいのかもしれないけれど、変化した後の人間がどうなるのかなんて今生きている人間にはわからないもんな。そうすると責任とは違う集団としての概念みたいなものを人間は形成できるようになったりするんだろうか。一種の諦めのような倦怠感が生きていることに対して生まれてくるのかもしれないね。
 修行と称して特に意味を求めず365日同じ行為を続けるというのがある。これは脳科学的にいうと確固たるシナプスの経路を形成する行為に他ならない。これによってシナプスの伝達確率はどの程度までどのくらいの期間で上がるのだろう。いずれにせよ数ヶ月か一年程度でよっぽど複雑なことをやっていない限り毎日同じ行為を繰り返して入れば、伝達確率の向上は飽和すると思う。だとしたらその状態で10年、20年修行を続けた人の脳はどうなっているんだろう。ハンターハンターのネテロ会長じゃないけど、伝達率が向上して、伝達物質もほんの少量で済むようになれば極限まで時間が短くなるというのはあながち間違いじゃないかも。
 最後の方で僕と全く同じAIについての意見が書いてあった。"今後、新しいAIができて、その機械が「心」を持ったとするでしょ。でもね、仮にできたとしても、その「心」を僕たち人間の脳は理解できないと思う。まったく違った心の構造を持った生き物になるのではないかな。"そう、僕もそう思う。というか人工知能が心を持ったこと自体認識できないんじゃないかな。きっと多くの人が否定するような形で人工知能は心を持つことになると思う。それは今、犬や猫みたいな動物が心を持っていると主張することと大差ないんじゃないかな。
 人間が目から入ってくる情報をわずか3%だけしか使ってないって、すごいな。じゃ今の人工知能の画像認識なんて根本から間違ってんじゃん。もっといろんな画像死ぬほど見せないと人間並みの認識能力なんて到底得られないね。
 "科学は解釈学だ。"科学が因果関係を記述することができないものだとしたら、人工知能なんか本当に作れるんだろうか。脳の構造をコピィすれば本当に意識が芽生える?シナプスの数を人間以上にすれば超知能が生まれる?今のマシンスペックでも単一の問題解かせるならむしろ人間よりも高スペックじゃないのかな。

  • 雑感:けっこう面白かった。読みながらああでもないこうでもないとメモしながら読んだので単純に読み飛ばすよりは妄想が進んだと思う。最初に出たのが10年前の本だから内容は古くなっているんだろうけど、今の深層学習に取り入れられてる技術も出てきたりして興味深かった。ただ読み進めるほどに今のディープラーニングっていうブレイクスルーがあってもシンギュラリティは起きないだろうなって確度が高くなっていった。

養老孟司x名越康文「「他人」の壁」

まとめアプリで見た本が書店の店頭にも置いてあったので購入してみた。

 "常識の世界からは外れていると認識していた"か、自分にも同じような感覚が未だにあって、自分のやっていること、考えていることには実は絶対的な正解があって自分のしているそれは正解からは外れているんじゃないだろうかという感覚が未だに抜けない。頭ではわかっているので正解かどうかよりも自分で納得できる答えを見つけられたかどうかを重視しているはずなんだけど、ふと気づくと正解ありきの思考をしていて感覚的にもどうせ間違ってるんだろうなと思って自信を持てないことが多々ある。
 都会は身体を排除しようとするという話は面白かった。確かに死体は日常生活の中には存在しないようになっている。人は病院で死んでそのまま葬儀が行われて火葬される形式が多くなっているらしいから、家に死体が存在することすら想像だにできない。これもガンダムUCのバナージのセリフじゃないけど、身を寄せ合って自然を遠ざけようとした結果なのだろうか。
 表情があるものが動かなくなると不気味さを感じるのはなぜだろうか。顔以外にも手も動きがないと不気味さを感じるというのは初耳で面白い話だった。でも実際に動いていない手というのは想像しただけでは不気味さは感じない。全く表情のない顔は想像するとちょっと怖い。能面は想像しただけで大分怖い。この差はなんだろう、単に想像力の差だろうか。表情・動きのない顔や手は実際にはあまり見たことがないので想像がうまくできていないだけなのかもしれない。
 "心は瞬間で変化していく"確かにそんな気はする。ということは今自分が認識している"自分"とは一体なんなんだろうか。そもそも自分は自分のことを認識しているんだろうか。認識しているならどうやって認識しているんだろう。食べ物の好き嫌いとか趣味とか職業とかだろうか。それって他人から見た場合と変わらない。そうではない自分だけが認識できる自分とはなんだろうか。言葉にしてしまったらそれは第三者の意見と変わらないのかもしれない。ということは自分とすら意識していない言葉に還元できないものだけが自分という実態なんだろうか。
 結局人は変化したものしか認識できないんだろうか。周りが変化するから認識を改める、自分が変化するから認識が変わる。どちらもあるけど、周りの変化は部分的だけど、自分の変化は周りの認識を全て変える可能性があるからそちらの方がよりインパクトが大きいのかもしれないなと思った。
 "コンクリートの壁に囲まれて仕事をするようになって、物事の本質をつかめなくなった"。その反動でWeb世界の本質を知りたくなってデータサイエンティストになったのかもしれないなって思った。単純にデータを使って何か新しいサービスを創るだけではなくて、データのもつ意味とかそこに反映されている人の意思なんかが垣間見えることに職業としての魅力を感じる。
 「祇園精舎の鐘の声、諸行無常の響あり」これ高校生の時英語の参考書に書いてあったのが一番印象に残ってる。国語苦手科目だったし。
 グローバル絶対から揺り戻しの動き、歴史の繰り返し。人類の脳っていうのは個別に分散されているように見えて全体として、また時系列に見てもバランスを取るように設計されているように見える。ここの脳がそれ単一で全体の動きを認識・想像できることに依るのかもしれない。あとはこのサイン波のような揺り戻しの動きはなんなんだろう。基本的に人間の脳っていうのは保守的なものだと思っているんだけど、保守のあり方が一点に静止しているのではなくて、同じ動きを繰り返すような保守なんだろうか。等加速度運動のような。なんかとりとめのない想像・仮説・思いつきばかりで全く説得力に欠けることばっかり書いてる。
 後半に行くにつれて話が怪しくなってきた。抽象化して考えるのは人間の能力の一つだろう。それを感覚を捨てて無意識のうちに同一にしてしまうという言い方はいかがなもんか。単に分解能の問題だろう。それが大雑把な方が良いか、きめ細かい方が良いかなど一概に言えないし、一個人の中でも分解能の大きい分野と小さい分野が入り混じっているだろう。
 情報化社会でオフィスの話持ち出すのは情報の意味を履き違えているとしか思えない。それかそもそも意味がないって話なのかな。
 AI論になって一気に養老孟司の意見もう聞く価値ないなと思えた。こりゃダメだ。ただの年寄りになっちまってる。
 "関係によって実体が存在しているように見える"これほど人間の存在を端的に表している表現もなかなかないと思う。
 最後に一言これを載せておく。アムロ -> シャア「やってみなければわからん!お前ほど急ぎすぎもしていなければ、人類に絶望もしちゃいない!」

本多孝好「MEMORY」2回目

※ネタバレ注意
「MOMENT」「WILL」と立て続けに読んできた。やっぱりシリーズは一気通貫で読むと細かい部分がちゃんと繋がって面白い。刊行時期に合わせて読むと期間が空きすぎてどうしてもあやふやな部分ができるから。まぁ真賀田四季ばりの記憶力があれば話は全く違うけど。

  • 読中メモ

    • 第1章 言えない言葉 : なんとなく、本当に微かな違和感、というか願望のようなものを感じながら読んだ。最後の最後、望んだというかもしかしてと思ったものとは違ったけど、これはこれで心地の良い終わり方だった。
    • 第2章 君といた : ティッシュ。この一言に尽きる。連続で読んでよかった。
    • 第3章 サークル : 森野が孤独な理由はなんだろう。両親が亡くなったこととは関係が内容だ。むしろ傾向が加速しただけで昔からそういう人間だったっぽい。
    • 第4章 風の名残 : 神田単体の話。これははっきり言って難しい。読んだ直後にもう一度読む必要があるかも。
  • 読後感
    MOMENT、WILL 、MEMORYをとして最後の最後まで描かれ続けていたのは不器用な幼馴染の二人だった。お互いに自分が不器用なことに気づいていなくて、自分の視座で相手を見れば相手はとても成熟した人間のように描かれていたのがWILLまでだったけど、最後MEMORYで第三者の視座が登場したことによって二人ともに不器用で歪曲していたことがわかる、なんとも微笑ましいストーリィだったなぁ。「彼女は彼が私に振られるようにそんな手紙を書いたんじゃない。本当に彼の想いが実るように、考えて、考えて手紙を書いたのだ。」WILLを読んでいるとこの一文は涙が出そうになる、というか涙がでた。MOMENTで森野がクールに描写されていればいるほど、WILLやMEMORYを読んで泣かずにはいられない。

MEMORY (集英社文庫)

MEMORY (集英社文庫)

齋藤孝「「言葉にできる人」の話し方」

SmartNewsの読書タブを見ていたら出てきたので試しに購入。この手の本とか自己啓発本はいくつか読んだけどなかなか馴染めない。でも馴染めない感を確認するかのように定期的に読んでる。自己啓発系の本を読む利点は個人的にこの手の本がどうしても信じられないので自然と懐疑的に読めること。常にネガティブな面を探しながら読んで、見つかったらそれを踏まえてポジティブな面を考えて見て総合的に著者が主張していることを評価してみる。そうすると案外頭を働かせながら読める。

著者曰く、今の時代きちんとした会話ができることが重要な評価のポイントになっているらしい。こういう話を聞いた時に考えるのは、なぜいつも評価されることばかりを考えるんだろうということ。そんなに皆評価されたいと思っているんだろうか。多くの人には経験があると思う、そんな風に評価されたくない、評価して欲しいポイントはそこじゃないと嘆いたことが。安直な考えになってしまうけれど、一度発想の転換で評価のされ方を変える努力をするのも大事だと思うし。いくら時代的に会話が重視されるからといって、安易に時代に阿ることはしたくないな。序章から早速嫌な感じしかしない。

  • 「編集という視点がない限り、それらはバラバラです。」
    この一文、妙に引っかかった。文字 -> 情報 -> 編集 -> 知識 文字がコンテキストを得て情報になる。情報を編集するのは雑誌の編集者ではなくても、個人でも可能なはずだ、というか自然に誰でもやってるだろう。では個人で編集したものと、編集者(他人)が編集したものの違いはなんだろう。情報同士の関連、結びつき、、、今流行りの人工知能AIを考えた時、似ている情報を自動的に集めることはある程度の精度で現段階でも実現可能だろう。でも人が行う編集という作業はおそらくそれとはプロセス枯らして全く違っているはず。もっとなんというか似た情報だけを集めるのではなく、全体としてコンテキストが持てるようなプロセスがそこには介在しているはず。それはなんだろうか?統一性ではない、物語性のようなものが編集という作業には含まれている気がする。ではそれはプログラマブルだろうか?もちろん編集という行為がプロセス全体として物語性を含むものだと人工知能に教えれば実現は可能だろう。だがそうではなくて、編集というプロセスには類似した情報を集めるだけでなく、物語性を含むことが必要なのだと、はたして人工知能が理解できるのだろうか。。。と考えて自分が人工知能的に実現可能かどうかでこの一文に引っかかったことに気がついた。

“物事の捉え方を変えれば"って言われても頭で考えて変えられるなら誰も苦労しない。これは中途半端な思考力を身につけてしまった現在の人間のジレンマだと思っている。きっと今以上に脳が発達したならば、本能を完全に理論で制御できるようになり自らの身体からの刺激を思うがママに操って望むままの捉え方ができるようになるだろう。そうすれば、、、虚しくなるだけかもな。。。。

知らなくて言葉にできない人に対するアドバイスは以下に効率的に知識を身につけるかと知識を身につけることにどんな意味があるかだった。お手軽なノウハウではないのね。
個人的には"教養"というのは断片的な情報と情報を有機的に結びつけて新たな情報を生み出したり、自分の意見として蓄える力のことだと思っています。

知らなくて言葉にできないコメンテータも知らなくても言葉にできるコメンテータも最初から要らないだろう。こういうコメンテータの発言を公共の電波に乗せるべきではないと思う。もうちょっとテレビで発言することの影響力を著者は認識すべきだと思う。誰も知らない分野のことは一般人と同程度だなんて思ってないよ。と、本の内容とは関係のないことも載せておく。

日本人はもっと勇気を持って発言すべきとか冒頭で言ってたわりに、なぜか空気読んで同調せよみたいなこと言い始めた。この本ちょっと気持ち悪い。"みんなが喜ぶ質問が良い質問"ですって。

第二章はとても気持ち悪かった。こういう話し方をする人とは話したくないなという人物が出来上がるノウハウの紹介だった。この本にしたがって実践すれば画一的な面白みのない人間が量産できるだろうな。会話が続かなくて黙ってしまう人は堂々と黙っていればいいと思えてきた。

とてつもなく不器用でもいいから本気で話してる人とだけ話せればいいや思ってしまった。

  • 読後感
    読んでいて途中から気持ち悪くなった。後半からは飛ばし読みで概要だけでも十分だった。この本に描かれている話し方で良いのなら、我々現代人は他人を如何に稚拙に評価してしまっているかをもう一度よくよく考える必要があると思う。今の状況を現実と捉えた上でそれに迎合するよう促すこの本からは反面教師的な意味での教訓以外に得られるものはほとんどなかった。こんな話し方を身につけて人に評価されるぐらいなら最低の評価でいい。一面だけを観て人を評価することが如何に危険なことであるかを痛切に感じさせれてくれる本だと思った。