1000冊の記憶

1000冊以上本を読むともう内容が曖昧になってくるのでちゃんと感想を残します http://booklog.jp/users/f_t812

牧村康正「「ごじゃ」の一分」

  • 選書の理由
     ニュースアプリでたまたま見かけたのと、最近読んでる本とは違う傾向のものを読んでみたくなったので購入

  • 書評
     "だろう"、"かもしれない"、"らしい"第三者の書いた自伝ほど信憑性にを疑いたくなる内容はない。基本的に賞賛の嵐だったけど、内容が薄くて人物の人柄については何も感じるところはなかったけど、こういう世界もあるんだなってぐらいはわかった。  

  • -メモ

福岡伸一「もう牛を食べても安心か」

  • 選書の理由
     福岡伸一先生の著書を色々読んでいる中で、今日たまたま書店の本棚に並んでいるところを見かけたので購入。本当は違う本を探しに行ったけど、それはなくて代わりにこの本が会ったので何かの縁だろう。

  • 書評
     今は全くと言って良いほど報道されなくなった狂牛病について、10年前の当時、全頭検査の実施有無やアメリカからの輸入再開についてを議論した本。内容は狂牛病の枠組みにとらわれず、遺伝子操作や食品の安全性についての考え方、果ては生命とは何なのかまで非常に大きな視点から生命を考え直すことができる本になっている。
     他の福岡先生の著書でも再三述べられているように、生命をパーツとして捉えることに強く反対されており安易な臓器移植や遺伝子組み換え、部分的なロジックに基づいた安全基準の設定などに警告を鳴らしている。特に生命は分子の淀みとして現れている現象に過ぎないという考え方の基に今一度生命とは何なのかについて考えを改めるべきであるという主張には納得感と説得力があり自分の浅はかな知識でも考えさせられるものがあった。話はやや逸れるが人工知能がブームとなっている昨今、生命とは、人とはという議論について局所的な知見ではなく命とは何かと言った一つ高い視座から考えてみるのはとても有益なことだと思った。

  • -メモ
     分解と再生のリズムを取っているサイクリンというタンパク質、とても興味深い。なぜこういう役割を担うタンパク質が必要なのだろう。振動子になっているということなので揺り戻しの概念も考慮に入れると、時間とバランスという物の重要性や必然性を考えるヒントなのかもしれないと思わせる。
     母体から母乳を通じて抗体まで受け取っているという話はとても興味深い。早くから粉ミルクで栄養のみを摂取するのではなく母親から抗体を受けとるのであれば、母乳の方が良いに決まっている。離乳とは環境に対する抗体を赤ちゃんがきちんと身につけられた時期に行うべきものだったのか。粉ミルクなど補助の域から出すものじゃないな。
     記憶とは特定の分子に施されたコードではなく、細胞間の回路網のことであるという。であれば分解・再生を繰り返すことが可能で記憶の変化も分解・再生の過程での分子の微妙な変化によるものと言える。だとしたらしばしば起こる記憶の美化とは何だろう。分解・再生の過程で我々の意図がノイズ的に介在するのだろうか。それともノイズが混じり美化された記憶だけが思い出しやすくなっているという構図だろうか。

シュレーディンガー「生命とは何か」

  • 選書の理由
     先に読んだ福岡伸一先生の「生物と無生物のあいだ」で紹介されていたので福岡先生の一連の書を読む間に挟んで読んでみる。

  • 所感
     本のタイトルになっている「生命とは何か」という問いに対してシュレーディニガーは原子の振る舞いを説明する物理学的な規則・法則ではなく生物学の面から回答を導き出そうとしている。原子のランダム性を孕んだブラウン運動のような振る舞いに対し、生命体の身体を創る分子を秩序立った存在として、その秩序の土台の上から目指す答えに迫ろうとしている。
     上記のようなアプローチの中でも特に、シュレディンガーは意思・思考こそが生命と呼ぶものの根元だと主張していたのではないだろうか。ランダムな原子の上に成り立つ分子の秩序こそが生命体を生命体足らしめたものだと書いてはいたものの、生命として原子と比較し、生物学的アプローチを試みていたものはエントロピー増大の法則から逃れた生命体の神秘ではなく、意思・思考とは秩序を持った分子の上にいかに現れているか、であったと思う。
     久しぶりに哲学書を読んで思い出したのは、とっかかりの読みにくさだ。哲学書はまず言葉が難しい。どの程度の粒度で言葉を認識していけばいいのかわかるのにおおよそ一章分ぐらいは読む必要がある。でなければ、軽く読んでも良い箇所、かなり細かく言葉尻まで気にしながら読まなければならない箇所の判別ができず、それができないうちは内容の理解が進まない。哲学書は定期的に読んで感度を高めておきたいものだ。

  • -メモ

    • 第1章
       表現や言い回しが海外の著書らしい感じでとても読みにくいのでなるべくメモを残して行く。とりあえずこの著書でシュレーディンガーが明らかにしたいのは生命体の内部で起こっていることは化学的・物理的に説明が出来ることなのかどうかということらしい。
       このシュレーディンガーの時代の観点では、生命体の構造とは非周期性結晶であるため周期性結晶をその研究対象としてきた物理学ではこれまで発見されてきた規則や法則が生命体に当てはまらない、これが生物学・物理学の不可能性ということ。
       シュレーディンガー自身も物理学を学び生物体の構造を物理学の観点から理論的に仮説立て、それを生物学的観点から見直すことで今の考えに至ったと、それしてそれはとても紆余曲折している道でありそれ以上に正解にたどり着く近道はなかったと。
       我々の最大の関心事は生命体の機関の働きよりも、思考と感覚の基礎をなす生理学であるので、物理的な変化とそれに伴う思考・感覚の変化を呼び起こす為には何故こんなにも膨大な数の原子が必要になるのか。シュレーディンガーは思考と物質(脳髄)が密接に結びつく為には秩序立った組織が高い精度で物理法則に従っている必要があり、さらに外界からの刺激に対しても同じように物理法則に従って相互作用する必要があるという。これは原子を一つずつには揺らぎがあり、この揺らぎの作用が大きい(原子に対して現状よりも体が小さい)状態では秩序が保証できないことの裏返し。または物理法則が原子一つ一つの記述ではなく、膨大な数の原子の振る舞いの近似値に過ぎないから。
       原子一つ一つの振る舞いはブラウン運動に代表されるようにランダム性を孕んでおり、確かに一つ一つの動きを全て捉えてしまうと秩序がなくなってしまう。ではここで生じる疑問はなぜ生命体の体は原子一つ一つの動きではなく、全体の平均を感じ取るようになったのだろうか。原子一つの動きにまで鋭敏で全体ではなくここの動きを察知する感覚器官ができていても不思議はないはず。なぜに角も大きな体と平均を知覚する機関になったのだろう。
    • 第2章
       第1章の話は厳密には生命体に当てはまらず今日ではごく少数の原子からなり、統計的法則を満たしそうにない原子団が体内で影響を及ぼしているらしい。しかしながら物理学的な統計法則は満たしていなくても生物学的法則は極めて厳密に満たしている。
       対になっている染色体のどちらか一方を確率的に遺伝しているのだとしたら自ずと人の数もかなり限定されるし、そもそも染色体の種類数が限定的になるんじゃないかと思ったら、対になっている染色体同士が一旦交差してそこから分離することがあるのね、だとしたら交差する場所で別の染色体ができあがるからほぼ無限に近い組み合わせになりそう。
       シュレーディンガーはそもそも形質というものを厳密に定義できずむしろ全体として一つだという考え方をしている。これは身体を機械論的に考える今の主流とは真逆の立場だ。
    • 第3章
       偶然変異と突然変異。偶然変異はいわば揺らぎ、誤差のようなもので遺伝はしない。これに対し突然変異は現存する種とはその特徴を異にするもので遺伝する。ということは偶然変異は後天的なもの、突然変異は先天的なものであって先の染色体の交差と関係するのだろうか。だが、そうであるならばもっと多種多様な突然変異が起こっても不思議ではない感じがするのでそう単純なものでもないのかな。そうか、交差によって染色体全体は変わるかもしれないが所謂座と呼ばれる部分的な箇所は正常で突然変異体とはならないのか。ここに優性・劣性も考慮に入れる必要があるからもう一段階複雑だった。
       原子一つ一つの揺らぎの影響を受けない為に生命体の身体が大きくなっているのとアナロジーで、突然変異の影響を極端に受けないようにその確率が小さくなっている。世の中の現象というのは、2値の結果に対して明確に区別するのではなく、あくまで確率論的に説明ができるようになっている。
    • 第4章
       量子論に置いて分子が次のエネルギー準位に移ることと突然変異が対応するらしい。ただ準位間のエネルギー差で変異が起こるのではなく、中間状態のエネルギー準位を超えるエネルギーを与えないと変異は起こらない。
    • 第5章
       突然変異に中間状態がなく「飛躍的な進化」であるのは量子論的な考え方をすればしっくりくる。本当にX線によって遺伝子の変化、突然変異が起こるのならばX線とはなんなんだろう。遺伝子に多様性を与える為のものなのか、それとも生命が進化の過程で変異を起こす為に選んだのがX線だったのか。
    • 第6章
       シュレーディンガーはこの章から、統計的な物理法則以外の別の物理法則によって生物体が成り立っていることを示そうとしている。負のエントロピーの摂取によってエントロピー増大の法則から免れようとしている。動物の肉を食べることでその秩序立った物質を取り込むことでエントロピーの増大を防いでいる。福岡先生の著書にあった消化の原理を連想させるが、あれは動物の情報を消してい るからある程度はエントロピーを増大させないと取り込めない分効率が悪いな。
    • 第7章
       原子団がその位置をほんの少し変えるだけで生命体の表象に目に見える変化が現れ、それはとても秩序立ったものの上に成り立っているという。この表現を読む限り、原子的なランダム性と分子としての秩序の間にシュレーディンガーは一定の線を引いている。ではブラウン運動のような原子のランダム性と高度な秩序の間には明確な壁はあるのだろうか。

伊坂幸太郎「AX」

※ネタバレ注意

  • 選書の理由
     伊坂幸太郎先生の本の新刊は全て読んでいるのでこれも例外にもれず購入。7/28発売となっていたわりに7/26頃にはもう書店に並んでた。これが角川書店の力か、講談社の発売日に並ばないノベルスの新刊とは違う。。。

  • 書評
     汚い仕事の請負人である主人公とその息子の目線でストーリィが展開して行く。登場人物たちはお互いにお互いの気持ちをなかなか理解できないままにそれでもお互いのことを考えながら生きている彼らと、冷酷で臆病な黒幕・医師との対比が面白かった。オチは途中からなんとなく察しがついたけど、それでも涙が出てきたし、ことあるごとに他人の気持ちを理解することができない描写があったわりに最後は"情けは人のためならず"のような展開で一石投じていた。  欲を言えば主人公の内面をもう少し詳細に知りたかったなぁ。

  • -メモ
     コメディタッチで面白い本というのはついつい時間を忘れて読み進めてしまう。
     スズメバチと本物のスズメバチの巣を撃退した殺人者、殺人者の恐る恐妻、母を思う健気な子供と大人気ない母親、日常と非日常のアンバランスな感じがストーリィに厚みを持たせている。
     "松田さん、同じような文言でしたよ、と伝えたかった。"何かを伝えたい相手がいるということは良いことだなと思った。

福岡伸一「新版 動的平衡」

  • 選書の理由
     本屋にずっと並んでいた新書。これを読むために福岡伸一先生の著書・訳書を数冊読み倒して、先生の使う言葉の豊富さ繊細さに魅了されて、その文章、構成の虜になった。かつて2巻出ていた「動的平衡」は読まずにこの新書に取り掛かる。もしかしたら読み終わった後、もとの「動的平衡」を読むかもしれないと思いながら一ページ目を捲ってみる。

  • 書評
     まずこの本を読んで素直に感じることは、研究はとても面白そうだということだ。これは福岡先生の著書のどれを読んでも顕著に感じることである。それは研究という言葉のかっこよさや華のようなものではなく、地味で気の遠くなるような準備、作業、仮説、実験、検証の果てに見えるものがあるということだと思う。特に福岡先生の書かれている内容は華やかな結果ではないけれども、それでも膨大な積み重ねの上に見えてくるものにはある種の興味を感じずにはいられなかった。  生命を機械論的に捉える主流派とは違う、動的平衡という考え方はとても興味深い。特に時間という概念が組み込まれ、生命を現象すなわち時間的に分子が淀んでいる状態だという考え方についてはなるほどと思わせられると共に改めて生命とはなんなのかという問いが強く意識された。我々は本当に生きているのだろうか。分子の淀みの中でエントロピー増大の法則から逃れるようにして自らを分解・合成する術を身につけた生命。それは自ら望んで淀んだのだろうか、例外のないルールはないという言葉にあるようにもしかしたら我々はエントロピー増大の法則の中の例外的なルールの一部に陥っただけの存在なのではなかろうか。法則から退避してこの淀みの中にわずかながらの生命を得たのではなく、たまたま法則の例外に流れ着いてしまった分子が否応無く淀んでしまっているだけなのではないだろうか。だとしたら生命とは、生きている現象とは考えれば考えるほどにただただ虚しくなるだけのものなのだろうか。

  • -メモ
     「生命現象とは何なのか」注意していないと読み飛ばしてしまいそうだが、福岡先生は生命を現象と捉えている。生きているもの機械論ではなく動的平衡にあるものとして捉えれば確かに生命は現象か。だとしたら人間とはある時にある場所にたまたま分子が集合した状態に他ならないのだろうか。であるならばこの分子の集合体の上に存在している、自らの状態を認識するこの自我とは一体何なんだろう。
     「動的平衡」「生命に部分はない」と対比しての「機械論」という視点から今の人工知能ブームを考えてみると、どうも今のブームやシンギュラリティは機械論的視点に立っていると思われる。脳の構造を解析し脳の計算速度を凌駕するコンピュータを創れば超知能が生まれるという発想はやや短絡的ではなかろうか。もう少しだけ妄想してみると、人工知能が行う学習とはなんだろうか。学習するには正解が必要となる。その正解を規定できるのは誰だ。超知能が生まれた暁には超知能が規定するのか、それが例え人の意に反したものだとしても?では人間が規定しているつもりの正解とはなんだろう。歩き方、喋り方、立ち方、座り方、正しい方法などあったか。ただその場、環境に合わせて馴れ合っているだけではないだろうか。だとすれば超知能には身体が必要となる。人を凌駕する超身体が生まれるシンギュラリティはいつだろう。  福岡先生が動的平衡という考え方をするに至った経緯は他の著書でも何度か書かれているが、何度読んでも心に訴えるものがある。"私には何か重大な見落としがあったのだ。それは「生命とは何か」という基本的な問いかけに対する認識の浅はかさである。"表象の言葉だけを読むと認識を新たにしただけにも読めるが、きっとそんな単純なものではなかったと思う。気の遠くなるような長いプロセスの果てに見えた結果から、自分の仮説を捨て別の認識へと昇華する際の思いはこれまでずっと自分がやってきたことを否定することにもなりかねないが、それでも新しい物・現象に触れ、それを理解・認識できた時のある種喜びにも似た感情は何事にも変えがたいものだと思う。

福岡伸一 阿川佐和子「センス・オブ・ワンダーを探して」

  • 選書の理由
     福岡伸一先生の著書を読み漁っている内の一冊。特に帯に書いてある"「生きている」とはどういうことか"の一文にとても興味をそそられた。

  • 書評
     阿川先生と福岡先生の対話形式で、センス・オブ・ワンダーをキーワードにして主に幼少期の体験についての話が展開されている。特に福岡伸一先生の記憶が抜群で幼少期のことがつい昨日のことのように鮮明に語られているのがすごく羨ましく感じる。だがふと自分のことについて、今なぜこうしようと思ったのか、なぜこう考えたのかを一度立ち止まって考えてみると、あぁ、そう言えば昔あの頃からそうだなとか、あんなことがあったせいじゃないかなとか、本の内容にひきづられているのかもしれないが、幼少期を思い出すことがあった。こういう普段無意識に行なっている自分の意思決定にも時々立ち止まって目を向けてみるのも悪くないなと思った、というか頭の体操にもなるし、何より懐かしい情景や思い出が蘇ってきて楽しい。
     この本を読んで何よりも感じたのは、子供の頃の感覚を失いたくないということ。失ってしまったものは取り返せないし、きっと失ったことにさえ気づいてないものもたくさんあるんだろうけど、それでも今失いたくない感覚はまだある。それは、このセンス・オブ・ワンダーとかクオリアと言ったような言葉に対する感覚。説明を聞くと何となくわかった気になるが、きっと気がするだけで感覚値としてしか認識できていないもの。これを無理やり言葉にして理解したつもりにはなりたくない。おそらく誰かのわかりやすい例えや説明を聞けば納得はできるんだと思う。だけどこう言った言葉の根底にある何とも説明し難い共通点のようなもの、そういうものがありそうな気がするという感覚、これは持ち続けていたいと思った。兎角現代は何でも言葉にしてしまってわかったような気になってしまうが、同じものを見聞きしてもその時々で変わっている感覚のようなものに気づく程度に敏感さを持ち合わせていたいと思った。

  • -メモ
     冒頭絵本の話が出てきて昔実家にあった絵本のことを思い出した。実家の絵本はなぜか(子供からすると)ガラス戸のついているとても重厚な棚にしまってあって、気ままに手にするのが子供心にはばかられるような感じだった。そのせいもあってか逆に絵本を読んでもらった思い出は、物語だけではなくもっと崇高なイメージが勝手についている。特にトロールの物語などは普通なら怖いという印象にでもなってしまいそうな所が、高級な本棚にしまってあったという印象が植えつけられているおかげでどこか別世界の物語なんだと一種高みから捉えていた記憶がある。それは今となっては到底言葉にできないような不思議な感覚として思い出されて非常に興味深い。この感覚は大事にしていきたいものだと思った。
     阿川さんは言った、"物事を判断したり、決定したり、選択したりするときの何とも言えない薄っぺらさみたいなものを、豊かな視点や広い視野をもとにして、どう回復していけばいいのか伺いたいと思っているんですよ"これは是非知りたい。この本の根底にはこの問いがあることを意識して読んでいく。第1章を読み終わった時点でこの問いに対する回答は、子供の頃の培った感覚を忘れずに自分の中に活かしていく、もしくは忘れていてもそれをもう一度自覚し直すことで回復できるのかな。  良い本、面白い本、特に知的好奇心をくすぐるような本はどうしても一気に読むことができない。読んでいる途中で何か別なことを考えたくなってしまう。福岡伸一先生の本は特にその傾向が強い。それはきっと今自分が悩んでいることや考えたいこと、思考を占領していることと関連があってそれに対するヒントが散りばめられているからだと思う。要するに、自分自身と自分を取り巻いている環境と本に書いていある内容がマッチしていて自分の進む方向を示してくれているのだと思う。こんな書き方だと宗教っぽく聞こえてしまうが、そうではなく内容がたまたま自分のやっていることを肯定してくれている、または肯定までは行かなくても間違ってはいないと思わせてくれるものなんだと思う。1000冊も読んでいるとたまに本の内容と読むべき時期がマッチすることがある。前回は確か10年前に読んだ森博嗣先生の「スカイ・クロラ」で今回が2回目。

西尾維新「忍物語」

※ネタバレ注意

  • 選書の理由
     最新刊が出たので読む。終わる終わるサギのようにいつまで経っても終わらないけど今のところ終わるまで読むつもりで読む。当初のドロドロの怪異の話はなくなってたり、主人公も刊によって違うし、発行順が時系列順になってないからもう前の話あんまり覚えていない。今のところ一番の謎は駿河の認識している扇ちゃんは男でそれ以外の人物が認識している扇ちゃんは女だということ。あとアニメだと貝木って悲惨な感じになってなかったっけ?

  • 書評
     阿良々木くんが大学一年生のタイミングの話らしい。前巻が就職して警官になってたからやや時間が戻った。そして先のキスショット・アセロラオリオン・ハードアンダーブレード誕生の巻とリンクしてるみたいだ。登場人物の名前がやたらに難しくて感じを絵として認識するしかない、覚えきれん。  ストーリィとしては女子高生という青春時代の葛藤を怪異を通して表現したような内容だった。それを大学生になった阿良々木目線で語ることによって、孤独を選んだ人間と、集団の中で青春時代を送った人間との対比で心情が語られている。  そして阿良々木の相変わらずの鈍さというか常識の無さが描画されている。幼馴染の老倉の家の合鍵持ってたり、女子大生の友達作ったりとこれブラック羽川が言ったセリフ「お前、本当は人を好きになったことがないんじゃないかにゃ」が未だに尾を引いてる気がする。まぁでもこの前の巻で就職後の話出ちゃってるから紆余曲折あるのかもしれんけど、結局結論はわかってるんだよなぁ。。このシリーズ一通り読んだらもう一回時系列順に読み直したくなる仕掛けでもしてあるのかしら。

  • -メモ