1000冊の記憶

1000冊以上本を読むともう内容が曖昧になってくるのでちゃんと感想を残します http://booklog.jp/users/f_t812

甲野善紀 養老孟司「古武術の発見」

  • 選書の理由
     まとめアプリに出ていて気になったので購入。養老先生の最近の著書はあまり好きではないけど本書は結構前のものなので期待。

  • 書評
     あまり読んだことのない内容の本だった。基本的には身体と精神の話で現代の日本人がいかに身体を意識の外に置いて精神すなわち心を重視しているかという警告だった。これと同じテーマは奈須きのこ氏の「空の境界」という小説でも描かれている。
     しごきや何も考えずにただ反復練習させられる修行が行われる理由は納得感があり非常に参考になった。身体が何かを体得するということは言葉で伝えられるものではないので結局その人だけのものになりがちである。そうすると武道の流派において二代目以降や師範は体得できているかも怪しいから教えられることがない。すると何をしていいかわからなくなるから、結果的にわかりやすいしごきや反復練習の強制ということになる。そして本当に理解している人間ならばそういう方向には行かずに後輩との共同研究という道に進んでいける、らしい。
     内容的には難しくて一度読んだだけではおそらく半分も理解できていないが、それこそこれ以外の本を理解しているという錯覚に基づいていて感知しているだけなのかもしれない。とすると本書でも挙げられていたが、もっと身体の知覚というものを意識してそれを研ぎ澄ませるように修練することには価値があると思った。

  • -メモ
     江戸時代に身体というものが意識されなくなり、では身体はどこへ行ったかというと武術の中に入って行ったらしい。
     道州制の話が出てきたが、今の県の大きさが人が一日に歩ける範囲だったのではないかという話はとても興味深かった。
     日本人の特徴というか海外の人間は言葉を重視して言語化できないものは存在しないという考え方、対して日本人は言語外のものを重視して、言語にできないものをむしろ積極的に認めている。言わなくてもわかってくれるとか。これは確かになるほどと思って面白かった。このような精神の上に西洋の文化を上塗りしている今の日本は非常にアンバランスな状態にあるのではないだろうか。でもそれは海外の文化を特に抵抗なく吸収してしまう日本人の特製の一つである。
     小脳はオートでの動き、大脳はマニュアル的な動き。スポーツが基本的に動きをオートにすることを目的としているとしたらプロのスポーツ選手は小脳が発達しているのだろうか。それとも大脳の機能が弱くて相対的に小脳が優位に立っているのだろうか。何れにしても想像するとなんか怖い。
     ”頭も感性もフルに動員してやるものなのだということがわかってくれば、後輩をしごいたりするより、後輩を心身ともにいい状態にしておいて、共同研究をしていくような形に自然になるはず何ですね。”その通りだと思う。教えるという立場よりも一緒に学んでいく立場を取ったほうが双方にメリットが大きい。
     ”広沢は考えない、池山は考えたことがない、長嶋に至っては、考えるというのはどういうことかもわからない、”何これ。
     養老先生の江戸時代の人の自分の捉え方の話はとても興味深かった。身分制度が安定しているから、自分の中の我よりも他人の中の自分、社会の中の自分がどういう存在なのかが重要で、皆それをきちんと理解していたと。だから本居宣長は他人が見る自分の墓を詳細に指示している。その反面、我が支配している現代では自分を理解しているのは自分だけだから墓はいらないという発想になる。どちらが正解ということもないが、とても怖いのはどちらも正解と思えない状況だ。他人の中の自分、自分の中の自分、どちらかを正解を思えるならば、それはそれで安定した状態だと思う。だが、どちらが正解なのかわからない状態ではそれはとても不安定だ。結局自分とは何なのか、わからない。現代は我というよりも、自分とはとどのつまり何なのか、根本的な疑問を暗に心のうちに宿している人が多いのではないだろうか、社会が安定していた江戸時代の人と比べて。