1000冊の記憶

1000冊以上本を読むともう内容が曖昧になってくるのでちゃんと感想を残します http://booklog.jp/users/f_t812

畑村洋太郎「技術大国幻想の終わり」

  • 選書の理由
     まとめアプリで見かけたので買ってみた。日本が技術大国だった時代などとうの昔に終わってる感がしているのと、こういう否定的できつめなタイトルの本って重箱の角つつくような批判ばかり繰り返して中身が伴ってないことが多いのでちょっと不安。

  • 書評
     読む価値なし。ものすごく薄っぺらな本です。根拠に乏しいし、伝聞そのまま書いてる内容もあるし。初学者のとっかかりぐらいの価値しかありません。あえて平易な内容で書いて共感者を増やそうということなのかも。10ページ目ぐらいから早速飛ばし読み。
     多分ウィキペディアとかで断片的な知識仕入れて作文書くとこんな本が出来上がるんだろうなというぐらい薄っぺらい。”だろう”、”聞いた”、”らしい”がかなり多くて、自分の体験したことではない。著者は日立の出身らしくメーカー的な立場で色々ものを言っている。その中で突然システムエンジニアの話が飛び出した時には驚いたが、おそらく著者の頭の中にはソフトウェアエンジニア = システムエンジニアとでも思っているんだろう。”なんちゃってSE”とか自慢げに名付けていたけど、ただのコーダーのことだから酷い有様だった。
     日本を技術立国だと思っている人がいると思ってること自体がすでにかなりの時代遅れだと思う。今の時代本気でそんなこと危惧しているのはこの著者世代の老害ぐらいだろう。
     著者の経歴が一旦企業に入ってから大学に戻ったらしいが、そのせいで中途半端に知ってる気になってしまっているのだろう。中国は人件費よりも市場としの価値はまだあるとか、何を言っているのか全くわからない。未だに日本と比べれば人件費は安いので中国での生産は続くだろう。
     時間の無駄だったのでさすがに途中から完全に飛ばし読みで終えた。

  • -メモ
     なんかあたかも企業を一人の人間のように扱って昔は謙虚だったのがいつのまにか傲慢になった的なことが書いてるが、単に企業内の人間が代謝して考慮すべきことを知らない人間が増えただけかもしれない。何を根拠に傲慢になったと言っているか注意深く読んでみると断片的な知識や憶測にすぎなくて非常に傲慢なことがわかる。  答えがないから20年迷ったとかほざいてるけど、答えがないんだから、それがあった50年よりも時間がかかっているだけのことだろう。
     ”デジタル化がもたらした生産のモジュール化”ですって。意味不明。
     第二章の冒頭”価値”についての話は最初読む価値があるなと思ったが、途中から方向がおかしくなって研究にお金費やすことにダメ出しし始めたところで読んでも意味ないと思い始めた。

伊東乾「人生が深まるクラシック音楽入門」

  • 選書の理由
     まとめアプリに出ていたので気になって購入。30万のオーディオ機器1セットは持っていても、クラシックはこれまで何回かチャレンジして見ても、未だに良いと感じられていないので方向性を変えて知識の面から興味が持てるか試して見る。
  • 書評
     とても面白い本だった。ただ注意点はこの本を読んだからクラシックを聴きたいと思うようにはならないということ。この本を読むべき人はクラシックを聴きたいと既に思っているけど、何から聴いて良いかわからない人、もしくは昔クラシックを聴こうとしたけど挫折してしまった人。学校で習う人物名とか曲名ではピンとこなかった歴史や派の違いがわかりやすく説明されているので、この時代の曲から聴いてみようか、とか、これとこれを対比して聴いてみるのが面白いかもしれないといったとっかかりの示唆を与えてくれます。
     この本を通じてわかったことは結局クラシックを聴くようになる為には好きな曲なり演者なりを見つけることだなと思ったんですが、それをするに当たってじゃあ誰の曲を聴いてみようだとかまず手始めにCDを買おうなのかyoutubeで検索してみようかなのかがわかります。
     またクラシックというものは録音技術がない時代から存在している為、基本的に昔の曲はホールで演奏されることが前提で作られているとうのも面白かった。確かに壁や天井での反響まで考慮に入れて曲が作られていたらそれはオーディオ装置のステレオで再現するのは無理だろう。いわゆるオーディオマニアという人はCDの音を忠実に再現するのに躍起になっているが、そもそもCDが本物を再現できない、今のハイレゾでも解像度が上がっているだけで反響音や残音までは再現できていないだろう。じゃあ何を必死こいて電柱まで立てているんだろう。
     最後に、この本を読んでよかったと思ったのは最終章の耳の聞こえなくなったモーツァルトが何を聴いていたのかって話。確かに耳が聴こえなくなっても自分の声は聴こえる。楽器の音は聴こえなくなっても自分の声だけは聴こえてる。こう言ってはなんだけど、モーツァルトは耳が聴こえなくなってからの方が自分の身体に刻まれている音楽がしっかりと聴こえるようになったのではないだろうか。バガボンドで小次郎が誰よりも自分と対話する時間を持っていたように。

  • -メモ
     学生の頃の音楽の授業なんてわけわかんなくて大嫌いだったけど、今改めて古典派とかロマン派とか聞くとちょっと面白いと思った。昔習ったはずなのに名前を聞いたことあるくらいの知識しかない。あとカタカナは病的に覚えられないので人名は諦める。
     「ソナタ」って何のことか興味すら持ってなかったけど音楽のスタイルの一種だったんですね。要するにパターンの一つなのか、起承転結みたいな。じゃあ「冬のソナタ」って一体何なんだ…
     ピアノ・フォルテの話とか面白い。ピアノがかなり大きくクラシックというか音楽の可能性を広げたのか。たたき方によって音に強弱つけられるのがそんなに重要だったとは全く知らなかった。スピーカの話も面白い。特に電気的なエネルギーを使うのと違って人間は大きな音が出せないから色々工夫しているという話。チェロとかコントラバスのエンドピンって楽器支えてるだけじゃなくて床を反響の為に使おうっていう発想だったのね。考えた人天才か。
     会場で生の演奏を聴くということとCDでスピーカを通して聴くということではその聴こえ方が全く違うらしい。特に反響音まで考慮に入れて曲が作られているというならばその違いは明確だろう。技術に興味のある人間としては、だとしてもスピーカから反響音まで含めて再現する方法はないのかという方向に行ってしまうわけだが。
     ”ここに、身体に刻み込まれた音楽があります。自分で歌うことができなければ、音楽に魂がこもらない。固有の歌がなければ、たとえ楽器は鳴っていても、ただの「音出し」にしかなりません。”これはとても重みのある言葉。楽器で音を出せばあたかも音楽のようになる。でも本当の音楽は自分の中から流れ出てくる音を表現しなければいけないということか。

「僕たちが何者でもなかった頃の話をしよう」

  • 選書の理由
     ニュースキュレーションアプリに出てきたのと以前書店でよく見かけていたので思い切って購入。新宿のbook1stを探したがなかったので神保町の三省堂で見つけた。

  • 書評
     タイトル通り数人の先生方が苦労話をしてくれる本だったが、何者でもない頃の話はあまり出てこなかった。形式としてそれぞれの先生の後援会の内容が前半に、後半は著者との対話で内容が展開していった。  全体的にははっきり言うと物足りない。新書に無理やり4人ぶんの話を盛り込んでいるから当然かもしれないが、普段小説などで本を読んでいる人間にはちょっと薄っぺらく物足りなさを感じるだろう。ただ一人一人の先生方はとても著名で面白い話を色々持っていそうな方々だったので、本書を導入と捉えて、別途一人ずつ一冊の本を出して欲しいぐらいだった。

  • -メモ
     はじめにの部分にも書いてあるが講演会の内容を本にしたものなので、若干味気ない。福岡伸一先生の著書を読んだ時のような情熱までは中々伝わってこない。お手軽感のある新書だから仕方のないことなのかもしれないけれど、こういう本を読むとやっぱり重厚で内容のある本を読みたくなる。精神がバランスをとっているらしい。
     「でも基本的にはサイエンスの喜びっていうのは、誰かとディスカッションして、こんな可能性もある、あんな可能性もある、といろいろな可能性を見つけていくことに大きな意味があるのではないかと思うんです。」これ、ディスカッションしながら可能性を見つけていく作業はほんと面白い。特に自分がディスカッション内容の大半をちゃんと把握している時には。ここで面白そうな仮説が見つかったりするともう目も当てられないくらい研究に没頭したくなる。
     2人目の羽生さんと3人目の人が同じことを言っている気がする。レールの上に敷かれたものだけを見ていても面白くない。思いがけないこと予期していないことをする方が結果として面白くなる。これはあれか、1人目の山中先生の対談の部分でも同じような展開があったな。

「グローバリズムが世界を滅ぼす」

  • 選書の理由
     ニュースアプリを見ていたら出てきて、書評が面白そうだったので購入。もしかしたら自分が常々思っていることに近しいことが書いてあるんじゃないかと期待。

  • 書評
     端々にとても強い言葉が使われている。また比較対象となる相手についてはネガティブな情報のみをふんだんに盛り込み、自社目線の企業には賛賞の嵐。相手を攻撃するときは徹底的に攻撃しようとしているものの、著者の能力不足のせいか全く論理になっていないので強い言葉で誤魔化そうとしているようにしか思えない。  駄本。読む価値なし。読むと論理に弱くなり、威勢のいい攻撃的な言葉が身についてしまう。無論そんなことになったら周りにはあなたの虚勢がバレ、孤立していくだけだ。この本はそんな危険を孕んでいるゴミ本。読んで後悔。

  • -メモ
     グローバリズムが世界を滅ぼすという何とも刺激的なタイトルだが、書かれたのがちょっと前なのでまだオバマ政権の話をしていたりアベノミクス第二の矢ぐらいまでしか出ていない。ところでグローバリズムによりEUなどのような地域ては国家間の格差が、またドイツのように一人勝ちしている国でも国内の格差が広がってしまうという問題が提起されそれをグローバルのせいだと主張している。その根拠として規制がなくなってしまったことなどが挙げられているがいまいち納得できない。第1章を読む前に自分が考えていたことはこうだ。グローバル化が進んだことにより人・モノ・金・情報が瞬時に世界中に行き渡るようになった。結果世界中の人の知識が一元化され各地方または個人のオリジナリティがなくなり考え方に多様性が失われた。その流れで新技術の停滞が起こり、経済が回らなくなりつつある。
     インターナショナリズムグローバリズムは国境の考え方でその意味を異にするのか。勉強になる。
     グローバル化がとことん気にくわないらしく、この本の著者はグローバル化をけなしてばかりいるが、ネガティブな面ばかり強調しているので逆に信憑性に欠ける。例えばグローバル化が進むとお金の移動が極端になり経済が弱体化すると言っているが、ではもし今の状態を過渡期と捉えたらどうだろうか。お金が通貨という概念を超えて世界で統一の価値基準を持ったお金が登場したら。すると国家単位での景気の浮き沈みではなく純粋に各企業での業績の良し悪しになるだろう。そうした場合に国家、国というものは意味をなすだろうか。もちろん経済的な意味でだが。すでにEUの場合にしても資本主義の中で国という単位に固執してものを考えていること自体が古いように思えて仕方がない。
     「では、思考を停止するのはどんな人間でしょうか。それは「凡庸な人間」です。凡庸な人とは、心の力がもともと弱い人、あるいは心なき人ですので、すぐに思考を停止してしまう。」ウソだろ。。論理もへったくれもあったもんじゃない。一個も意味がわからない。思考停止ならまだしも停止せずにゴミみたいな思考能力で考えを発展させていくとこんな本が出来上がるんじゃなかろうか。
     自分が攻撃したい相手の不利な情報はバンバン出して、自分の主張は自画自賛。全く公平性に欠いた議論がずっと展開されている。読むと文章が下手になるので読まない方が良い本。

牧村康正「「ごじゃ」の一分」

  • 選書の理由
     ニュースアプリでたまたま見かけたのと、最近読んでる本とは違う傾向のものを読んでみたくなったので購入

  • 書評
     "だろう"、"かもしれない"、"らしい"第三者の書いた自伝ほど信憑性にを疑いたくなる内容はない。基本的に賞賛の嵐だったけど、内容が薄くて人物の人柄については何も感じるところはなかったけど、こういう世界もあるんだなってぐらいはわかった。  

  • -メモ

福岡伸一「もう牛を食べても安心か」

  • 選書の理由
     福岡伸一先生の著書を色々読んでいる中で、今日たまたま書店の本棚に並んでいるところを見かけたので購入。本当は違う本を探しに行ったけど、それはなくて代わりにこの本が会ったので何かの縁だろう。

  • 書評
     今は全くと言って良いほど報道されなくなった狂牛病について、10年前の当時、全頭検査の実施有無やアメリカからの輸入再開についてを議論した本。内容は狂牛病の枠組みにとらわれず、遺伝子操作や食品の安全性についての考え方、果ては生命とは何なのかまで非常に大きな視点から生命を考え直すことができる本になっている。
     他の福岡先生の著書でも再三述べられているように、生命をパーツとして捉えることに強く反対されており安易な臓器移植や遺伝子組み換え、部分的なロジックに基づいた安全基準の設定などに警告を鳴らしている。特に生命は分子の淀みとして現れている現象に過ぎないという考え方の基に今一度生命とは何なのかについて考えを改めるべきであるという主張には納得感と説得力があり自分の浅はかな知識でも考えさせられるものがあった。話はやや逸れるが人工知能がブームとなっている昨今、生命とは、人とはという議論について局所的な知見ではなく命とは何かと言った一つ高い視座から考えてみるのはとても有益なことだと思った。

  • -メモ
     分解と再生のリズムを取っているサイクリンというタンパク質、とても興味深い。なぜこういう役割を担うタンパク質が必要なのだろう。振動子になっているということなので揺り戻しの概念も考慮に入れると、時間とバランスという物の重要性や必然性を考えるヒントなのかもしれないと思わせる。
     母体から母乳を通じて抗体まで受け取っているという話はとても興味深い。早くから粉ミルクで栄養のみを摂取するのではなく母親から抗体を受けとるのであれば、母乳の方が良いに決まっている。離乳とは環境に対する抗体を赤ちゃんがきちんと身につけられた時期に行うべきものだったのか。粉ミルクなど補助の域から出すものじゃないな。
     記憶とは特定の分子に施されたコードではなく、細胞間の回路網のことであるという。であれば分解・再生を繰り返すことが可能で記憶の変化も分解・再生の過程での分子の微妙な変化によるものと言える。だとしたらしばしば起こる記憶の美化とは何だろう。分解・再生の過程で我々の意図がノイズ的に介在するのだろうか。それともノイズが混じり美化された記憶だけが思い出しやすくなっているという構図だろうか。

シュレーディンガー「生命とは何か」

  • 選書の理由
     先に読んだ福岡伸一先生の「生物と無生物のあいだ」で紹介されていたので福岡先生の一連の書を読む間に挟んで読んでみる。

  • 所感
     本のタイトルになっている「生命とは何か」という問いに対してシュレーディニガーは原子の振る舞いを説明する物理学的な規則・法則ではなく生物学の面から回答を導き出そうとしている。原子のランダム性を孕んだブラウン運動のような振る舞いに対し、生命体の身体を創る分子を秩序立った存在として、その秩序の土台の上から目指す答えに迫ろうとしている。
     上記のようなアプローチの中でも特に、シュレディンガーは意思・思考こそが生命と呼ぶものの根元だと主張していたのではないだろうか。ランダムな原子の上に成り立つ分子の秩序こそが生命体を生命体足らしめたものだと書いてはいたものの、生命として原子と比較し、生物学的アプローチを試みていたものはエントロピー増大の法則から逃れた生命体の神秘ではなく、意思・思考とは秩序を持った分子の上にいかに現れているか、であったと思う。
     久しぶりに哲学書を読んで思い出したのは、とっかかりの読みにくさだ。哲学書はまず言葉が難しい。どの程度の粒度で言葉を認識していけばいいのかわかるのにおおよそ一章分ぐらいは読む必要がある。でなければ、軽く読んでも良い箇所、かなり細かく言葉尻まで気にしながら読まなければならない箇所の判別ができず、それができないうちは内容の理解が進まない。哲学書は定期的に読んで感度を高めておきたいものだ。

  • -メモ

    • 第1章
       表現や言い回しが海外の著書らしい感じでとても読みにくいのでなるべくメモを残して行く。とりあえずこの著書でシュレーディンガーが明らかにしたいのは生命体の内部で起こっていることは化学的・物理的に説明が出来ることなのかどうかということらしい。
       このシュレーディンガーの時代の観点では、生命体の構造とは非周期性結晶であるため周期性結晶をその研究対象としてきた物理学ではこれまで発見されてきた規則や法則が生命体に当てはまらない、これが生物学・物理学の不可能性ということ。
       シュレーディンガー自身も物理学を学び生物体の構造を物理学の観点から理論的に仮説立て、それを生物学的観点から見直すことで今の考えに至ったと、それしてそれはとても紆余曲折している道でありそれ以上に正解にたどり着く近道はなかったと。
       我々の最大の関心事は生命体の機関の働きよりも、思考と感覚の基礎をなす生理学であるので、物理的な変化とそれに伴う思考・感覚の変化を呼び起こす為には何故こんなにも膨大な数の原子が必要になるのか。シュレーディンガーは思考と物質(脳髄)が密接に結びつく為には秩序立った組織が高い精度で物理法則に従っている必要があり、さらに外界からの刺激に対しても同じように物理法則に従って相互作用する必要があるという。これは原子を一つずつには揺らぎがあり、この揺らぎの作用が大きい(原子に対して現状よりも体が小さい)状態では秩序が保証できないことの裏返し。または物理法則が原子一つ一つの記述ではなく、膨大な数の原子の振る舞いの近似値に過ぎないから。
       原子一つ一つの振る舞いはブラウン運動に代表されるようにランダム性を孕んでおり、確かに一つ一つの動きを全て捉えてしまうと秩序がなくなってしまう。ではここで生じる疑問はなぜ生命体の体は原子一つ一つの動きではなく、全体の平均を感じ取るようになったのだろうか。原子一つの動きにまで鋭敏で全体ではなくここの動きを察知する感覚器官ができていても不思議はないはず。なぜに角も大きな体と平均を知覚する機関になったのだろう。
    • 第2章
       第1章の話は厳密には生命体に当てはまらず今日ではごく少数の原子からなり、統計的法則を満たしそうにない原子団が体内で影響を及ぼしているらしい。しかしながら物理学的な統計法則は満たしていなくても生物学的法則は極めて厳密に満たしている。
       対になっている染色体のどちらか一方を確率的に遺伝しているのだとしたら自ずと人の数もかなり限定されるし、そもそも染色体の種類数が限定的になるんじゃないかと思ったら、対になっている染色体同士が一旦交差してそこから分離することがあるのね、だとしたら交差する場所で別の染色体ができあがるからほぼ無限に近い組み合わせになりそう。
       シュレーディンガーはそもそも形質というものを厳密に定義できずむしろ全体として一つだという考え方をしている。これは身体を機械論的に考える今の主流とは真逆の立場だ。
    • 第3章
       偶然変異と突然変異。偶然変異はいわば揺らぎ、誤差のようなもので遺伝はしない。これに対し突然変異は現存する種とはその特徴を異にするもので遺伝する。ということは偶然変異は後天的なもの、突然変異は先天的なものであって先の染色体の交差と関係するのだろうか。だが、そうであるならばもっと多種多様な突然変異が起こっても不思議ではない感じがするのでそう単純なものでもないのかな。そうか、交差によって染色体全体は変わるかもしれないが所謂座と呼ばれる部分的な箇所は正常で突然変異体とはならないのか。ここに優性・劣性も考慮に入れる必要があるからもう一段階複雑だった。
       原子一つ一つの揺らぎの影響を受けない為に生命体の身体が大きくなっているのとアナロジーで、突然変異の影響を極端に受けないようにその確率が小さくなっている。世の中の現象というのは、2値の結果に対して明確に区別するのではなく、あくまで確率論的に説明ができるようになっている。
    • 第4章
       量子論に置いて分子が次のエネルギー準位に移ることと突然変異が対応するらしい。ただ準位間のエネルギー差で変異が起こるのではなく、中間状態のエネルギー準位を超えるエネルギーを与えないと変異は起こらない。
    • 第5章
       突然変異に中間状態がなく「飛躍的な進化」であるのは量子論的な考え方をすればしっくりくる。本当にX線によって遺伝子の変化、突然変異が起こるのならばX線とはなんなんだろう。遺伝子に多様性を与える為のものなのか、それとも生命が進化の過程で変異を起こす為に選んだのがX線だったのか。
    • 第6章
       シュレーディンガーはこの章から、統計的な物理法則以外の別の物理法則によって生物体が成り立っていることを示そうとしている。負のエントロピーの摂取によってエントロピー増大の法則から免れようとしている。動物の肉を食べることでその秩序立った物質を取り込むことでエントロピーの増大を防いでいる。福岡先生の著書にあった消化の原理を連想させるが、あれは動物の情報を消してい るからある程度はエントロピーを増大させないと取り込めない分効率が悪いな。
    • 第7章
       原子団がその位置をほんの少し変えるだけで生命体の表象に目に見える変化が現れ、それはとても秩序立ったものの上に成り立っているという。この表現を読む限り、原子的なランダム性と分子としての秩序の間にシュレーディンガーは一定の線を引いている。ではブラウン運動のような原子のランダム性と高度な秩序の間には明確な壁はあるのだろうか。