1000冊の記憶

1000冊以上本を読むともう内容が曖昧になってくるのでちゃんと感想を残します http://booklog.jp/users/f_t812

福岡伸一 阿川佐和子「センス・オブ・ワンダーを探して」

  • 選書の理由
     福岡伸一先生の著書を読み漁っている内の一冊。特に帯に書いてある"「生きている」とはどういうことか"の一文にとても興味をそそられた。

  • 書評
     阿川先生と福岡先生の対話形式で、センス・オブ・ワンダーをキーワードにして主に幼少期の体験についての話が展開されている。特に福岡伸一先生の記憶が抜群で幼少期のことがつい昨日のことのように鮮明に語られているのがすごく羨ましく感じる。だがふと自分のことについて、今なぜこうしようと思ったのか、なぜこう考えたのかを一度立ち止まって考えてみると、あぁ、そう言えば昔あの頃からそうだなとか、あんなことがあったせいじゃないかなとか、本の内容にひきづられているのかもしれないが、幼少期を思い出すことがあった。こういう普段無意識に行なっている自分の意思決定にも時々立ち止まって目を向けてみるのも悪くないなと思った、というか頭の体操にもなるし、何より懐かしい情景や思い出が蘇ってきて楽しい。
     この本を読んで何よりも感じたのは、子供の頃の感覚を失いたくないということ。失ってしまったものは取り返せないし、きっと失ったことにさえ気づいてないものもたくさんあるんだろうけど、それでも今失いたくない感覚はまだある。それは、このセンス・オブ・ワンダーとかクオリアと言ったような言葉に対する感覚。説明を聞くと何となくわかった気になるが、きっと気がするだけで感覚値としてしか認識できていないもの。これを無理やり言葉にして理解したつもりにはなりたくない。おそらく誰かのわかりやすい例えや説明を聞けば納得はできるんだと思う。だけどこう言った言葉の根底にある何とも説明し難い共通点のようなもの、そういうものがありそうな気がするという感覚、これは持ち続けていたいと思った。兎角現代は何でも言葉にしてしまってわかったような気になってしまうが、同じものを見聞きしてもその時々で変わっている感覚のようなものに気づく程度に敏感さを持ち合わせていたいと思った。

  • -メモ
     冒頭絵本の話が出てきて昔実家にあった絵本のことを思い出した。実家の絵本はなぜか(子供からすると)ガラス戸のついているとても重厚な棚にしまってあって、気ままに手にするのが子供心にはばかられるような感じだった。そのせいもあってか逆に絵本を読んでもらった思い出は、物語だけではなくもっと崇高なイメージが勝手についている。特にトロールの物語などは普通なら怖いという印象にでもなってしまいそうな所が、高級な本棚にしまってあったという印象が植えつけられているおかげでどこか別世界の物語なんだと一種高みから捉えていた記憶がある。それは今となっては到底言葉にできないような不思議な感覚として思い出されて非常に興味深い。この感覚は大事にしていきたいものだと思った。
     阿川さんは言った、"物事を判断したり、決定したり、選択したりするときの何とも言えない薄っぺらさみたいなものを、豊かな視点や広い視野をもとにして、どう回復していけばいいのか伺いたいと思っているんですよ"これは是非知りたい。この本の根底にはこの問いがあることを意識して読んでいく。第1章を読み終わった時点でこの問いに対する回答は、子供の頃の培った感覚を忘れずに自分の中に活かしていく、もしくは忘れていてもそれをもう一度自覚し直すことで回復できるのかな。  良い本、面白い本、特に知的好奇心をくすぐるような本はどうしても一気に読むことができない。読んでいる途中で何か別なことを考えたくなってしまう。福岡伸一先生の本は特にその傾向が強い。それはきっと今自分が悩んでいることや考えたいこと、思考を占領していることと関連があってそれに対するヒントが散りばめられているからだと思う。要するに、自分自身と自分を取り巻いている環境と本に書いていある内容がマッチしていて自分の進む方向を示してくれているのだと思う。こんな書き方だと宗教っぽく聞こえてしまうが、そうではなく内容がたまたま自分のやっていることを肯定してくれている、または肯定までは行かなくても間違ってはいないと思わせてくれるものなんだと思う。1000冊も読んでいるとたまに本の内容と読むべき時期がマッチすることがある。前回は確か10年前に読んだ森博嗣先生の「スカイ・クロラ」で今回が2回目。

西尾維新「忍物語」

※ネタバレ注意

  • 選書の理由
     最新刊が出たので読む。終わる終わるサギのようにいつまで経っても終わらないけど今のところ終わるまで読むつもりで読む。当初のドロドロの怪異の話はなくなってたり、主人公も刊によって違うし、発行順が時系列順になってないからもう前の話あんまり覚えていない。今のところ一番の謎は駿河の認識している扇ちゃんは男でそれ以外の人物が認識している扇ちゃんは女だということ。あとアニメだと貝木って悲惨な感じになってなかったっけ?

  • 書評
     阿良々木くんが大学一年生のタイミングの話らしい。前巻が就職して警官になってたからやや時間が戻った。そして先のキスショット・アセロラオリオン・ハードアンダーブレード誕生の巻とリンクしてるみたいだ。登場人物の名前がやたらに難しくて感じを絵として認識するしかない、覚えきれん。  ストーリィとしては女子高生という青春時代の葛藤を怪異を通して表現したような内容だった。それを大学生になった阿良々木目線で語ることによって、孤独を選んだ人間と、集団の中で青春時代を送った人間との対比で心情が語られている。  そして阿良々木の相変わらずの鈍さというか常識の無さが描画されている。幼馴染の老倉の家の合鍵持ってたり、女子大生の友達作ったりとこれブラック羽川が言ったセリフ「お前、本当は人を好きになったことがないんじゃないかにゃ」が未だに尾を引いてる気がする。まぁでもこの前の巻で就職後の話出ちゃってるから紆余曲折あるのかもしれんけど、結局結論はわかってるんだよなぁ。。このシリーズ一通り読んだらもう一回時系列順に読み直したくなる仕掛けでもしてあるのかしら。

  • -メモ

福岡伸一「生命科学の静かなる革命」

  • 選書の理由
    福岡伸一先生の最新刊「動的平衡」を読む前に以前の著作を色々読んでみる。これまでは講談社現代新書だったが、初のインターナショナル新書、赤い装飾と栞も同色の物が入っていてとても綺麗だと思う。音楽を流しながら読み始める。

  • 書評
     資本主義、特に自由競争社会の中にあって利益追及は避けては通れない物であるが、それでも何かを知りたい、素晴らしいものを創りたいという欲求を持ち続けることはとても大事なことだと思う。この本の冒頭は会社の中で働いているとつい忘れそうになってしまう、探究心を思い出させてくれるものだった。  全体的に生物学者のインタビューを除けば概ね「生物と無生物のあいだ」「世界は分けてもわからない」に書かれている内容だった。インタビューについてはそれぞれの学者の生い立ちや「生命とは何か」という問いに対する回答でまとめられていたが、特筆する事項はなかった。

  • -メモ

A・キンブレル(著) 福岡伸一(訳)「生命に部分はない」

  • 選書のきっかけ
     「世界は分けてもわからない」「生物と無生物のあいだ」と福岡伸一先生の本を読んでみたところとても面白かったので訳書ではあるけど、これも読んでみる。

  • 所感
     人間の体を部品として売り買いする様が、その歴史から今に至る過程まで様々な事例とともに幅広い分野から描かれており、色々考えさせられることが多かった。本書が特に読みやすい理由の一つとしてまず上げておかなければならないのは福岡伸一先生の翻訳のうまさにあると思う。一般的な翻訳本といえば、ぎこちない日本語が散りばめられており、時として元の英文がそのまま浮かんでくるような直訳に近い文章も少なくはない。しかしながらこの一冊は、最初から最後まで元の英語が思い起こされるような文章は一文もなかった。それどころか訳書ではなく原書が日本語だと言われればそのまま信じてしまいそうなくらいであった。
     さて当の所感としては、とても参考になる知識量の多いぜひ読むべき本だと思った。人体を部品とするようになった背景・歴史から機械論、市場原理によるその必然性まで丹念にわかりやすく描かれている。また重要なことに著者は体を部品扱いすることは終始反対の立場をとっているものの、根拠のない感情論的な反論は一切見られない。どのような意見にしてもメリット・デメリットが列挙されており公平な立場から文章を構成し、最終的に自らの意見がまとめられておりどちらの立場をとる人でも受け入れやすい内容になっていると思う。
     昨今のAIブームにおいて遺伝子工学の分野は先のiPS細胞のノーベル賞以降ややその話題を奪われた感はあるが、それにしてもこの本から学ぶことは今あえてとても多いと思う。無知な大衆の過度な期待とそこから金を集めるための市場原理による誇大な記事・発言の横行。まるで今の人工知能熱をそのまま反映しているかのような内容だと思う。
     我々は今一度、市場原理や機械論といった人のバックグラウンドになっている現象について冷静に目を向け、自分自身に謙虚になって物事を見つめ直す必要があるのではないだろうか。

  • -メモ
     司馬遼太郎先生は歴史を理解するということはただ断片的な情報を集めるのではなく、その時代の空気を感じる事だと、そんなことをどこかで書いていた気がするが、福岡伸一先生も似たような思考をお持ちのようで体を部品として見ても生命を理解したことにはならないというのはある種の教訓めいていて自身の考え方を今一度見直そうというきっかけを与えてくれる。
      体に現れる不具合はその部分の故障というよりは体全体の動的平衡の乱れの結果がその部分に現れているに過ぎないという考え方も自分の思考方法に応用できる気がする。もっと別目線を手に入れられるかも。
     この本を読んで考えるべきなのは"生命とは何か"という根源的な謎を明らかにすることではない気がしてきた。謎であるならそこには当然解が存在するはずである。人間と他の動物、または生命との構造的な比較によって人間たらしめているものを明確に定義できた時、それを"人間"と定義しそこから外れるものを人間でないと考えることができるはず、だと思っていた。けれどそれでは一軸足りていない。もう一つ、生死を定義する必要がある。人間は食物連鎖の中で他の生命を食すことで生きてきたが、どうやら最近はその道を踏み外して、生死の枠組みの中で生の範囲外にある状態をも生きてく糧にしているらしい。だが、人間の終点は死という分岐点があるのに対し、生の始まりなどいつ人間になったと定義できるのか。そんなの不可能だろう。幼児ならまだしも胎児についてその生がいつから始まるのか、いつ人間となるのかなどもはや正解の存在ではなく単なる解釈の域を出られないだろう。だとすればそれはきっと人間自身が胎児をいつから人として認識するか、によるしかないのではないか。当然そこには個人間で認識の差異が発生する。個人間に止まらず、世代の差異も発生する。おそらく統一の価値基準など作れないし、個人的には自分の体から片割れと言えど分身したものを人間でないなどと思い切ることなど、最初からできそうにない。
     何を生命と思うか、についてそもそも多数決のような決定方法で良いのだろうか。特に胚についての認識はある一定の解釈の基で話をするよりも当人同士がどう認識しているのか、どうしたいのかというところにある一定の価値基準を認めても良いのではないだろうか。
     おかしな話だ、裁判で赤ちゃんを商品扱いするかが問題か。すでに女性を妊娠するだけの器としてビジネスにした人間とそれを依頼、請け負った人間全てがおかしいだろう。親権などというものがある時点ですでに子供は所有物化してしまっているのに根本を変えない限り何も変わらないだろうな。
     検査で判定されていたらアトピーで20年以上苦しんだ僕は産んでもらえなかっただろうなぁ。治った今から考えると拷問のようだった20年を経て果たして本当に産んでもらってよかったのかどうかは疑問だし、そんなことに答えなどないけど、それでも思うのは人はそんなに単純なものじゃないからいつ何時価値観が変わってしまうかわからない。子供を授かるわずかな期間の趣味・嗜好・価値観で子供を選別するなど後々自分を苦しめるだけだろうに。
     障害のある人のことをかわいそうだとか、両親の損害だとかいう人間は一度吉田松陰留魂録を読んだ方がいい。「十歳で死ぬものは十歳のあいだにおのずと四季がある。二十歳で死ぬものは二十歳のあいだにおのずと四季がある。(中略)十歳をもって短いというのは、ひぐらしを長生の霊木にしようと望むことである。」
     遺伝子工学の世界でも期待だけ先行して中身が誇大広告になっている例が色々あるらしい。昨今の人工知能の分野見ても、どこもそんなに変わらないと思う。はっきり言って今の人工知能はブームで終わるだろうなと思っている。この先人の仕事を奪うこともないだろう。ある程度補助ができるとか、見落としがちな部分を正確に見つけ出すとかは得意だと思うけど、結局最後は人間が介在しない限り仕事としては成立しないだろう。何よりも手法ありきのビジネスが目に余る。データに手法を合わせずに手法にデータを合わせているようなものが散見される。それはそれで悪いことだとは思わない。工学的な観点から言えばその方がアプリケーションとしては完成が早くなるだろうけど、データが本来持っているポテンシャルを使いきれないだろうし、何よりも面白そうじゃない。
     クローン化技術の話についても夢物語が先行して今の人工知能ブームと同じ匂いがする。
     人は自らの手で優れた新人類に進化することはできない。天才を認識できるのは天才をおいて他にいない。我々は常に次のステージに進もうとはしている。しかし自らそうなるにせよ、人工知能で人を超えた存在、超知能を生み出すにせよ、どちらも不可能だと思う。なぜなら新たに出現したそれを、人類を超越したものだと評価できる術を持っていないから。せいぜい異常者だとか障害者として片付けてしまうのがオチだろう。
     機械論と市場原理、著者はこの二つが生命の商品化に繋がったと考えているが、果たしてそれだけだろうか。改めて立ち止まって考えてみる、自分と生命を分け合った胎児がまだ胚の状態であれ、その障害が認められたとして、その体が実験試料として使われるとなったらえも言われぬイヤな感じはしないだろうか。このいわゆる実体験、想像力の欠如こそが生命の商品化に拍車をかけてはいないだろうか。ありとあらゆる情報が波のように押し寄せては消えていく社会、情報もほとんどが2次元の中に収められていて、視覚・聴覚の情報のみでその場の空気・雰囲気も感じられない中で様々なことが決定されていく社会。この実体験の乏しさと、実際に体験するよりも格段に情報量が少なくなっていることにすら気づけていないという事実。これこそが生命の商品化の源ではないだろうか。
     遺伝子というものは実のところ人をどこまで規定しているものなのか非常に気になる。これまでもこれからも遺伝子学の動向としては優生学では特にDNAが全てを決定しているような風潮を感じるけど、では先天性とか後天性はDNAに全て情報が載っているものだろうか。情報転機のミスとかいくらでも能力差など出てきそうなものだけど。
     市場原理とは一体なんなんだろう。人間の欲の顕在化だろうか。それとも留まることの知らない探究心への挑戦だろうか。市場原理は人間の意思の現れだと思う。けれど間違っていけないのは決して人間全体の意思の現れではないということ。市場原理の中に全体のバランスを取ろうとか、将来的には今回り道をした方が良いという意図は出てこない。それは全ての意思は人間個人個人の総和に過ぎないから。全体でバランスを考えた判断もしていなければ、近しい人間の意見が反映されていることもないだろ。そんな中で人は判断を間違えないと誰が言えるだろう。  

福岡伸一「生物と無生物のあいだ」

  • 選書のきっかけ
    「世界は分けてもわからない」がとても魅力的な文章で描かれている科学系の本だったのでこの著者の本をいくつか読んでみる。

  • 所感
     この著者の書くものを読むのはまだ2冊目だけど、どちらも科学系の書物なのにとても文学的な表現に溢れていて、物語のごとく細胞のメカニズムが描かれている。まるで小説を読んでいるかのように読みやすい。今読み慣れた本を離れて新たな分野にチャレンジしてみたい読書家がいたらきっとこの著者の作品を紹介するだろう。きっと科学系の堅い内容が苦手な読者にも、文学が苦手なフィクションを好む読者にもちょうどよく平衡が取られていると思う。
     タイトルこそ生物と無生物のあいだとなっているが、この本はそんな枠組みに収まるスケールの内容ではなかったと思う。エントロピー増大の法則の中で、その法則をも取り込んだ秩序の中に生命という現象が現れ、そのまま我々人間として行動・思考しているという話は自分の存在の危うさと共に生きていることに対する神秘性をより深められるものだった。エントロピー増大の法則の存在自体にも疑問はあるが、その法則の中でなぜ秩序というものが存在しているのか。まるで誰かの意思でも働いているかのような錯覚にさえ陥りそうになる。それがもし偶然の産物なのだとしたら、遺伝子の欠損に対する許容度とは一体なんなのだろう。生命は生きることを目的として生かされているとしか思えないような柔軟性を細胞は持っている。これも人間の解釈が見せる幻想に過ぎないのだろうか。だとしたらそんな幻想を抱かせるまでに知能が発達した理由はなんだ。もちろん理由などないのかもしれない。ビリヤードのタマの動きのように原子の衝突の連鎖が産んだ偶然なのかもしれないが、それにしてはこの世界で生き抜くための準備が母親の体内にいる時分から用意周到すぎるほどに用意され過ぎてはいないだろうか。自然淘汰による進化を前提に考えた時に果たして生物はここまでの許容度を細胞レベルで可能にする必要があったのか。だとすれば今自分が思っている以上に生存競争は過酷で果てしないものだったと思いは巡るばかり。  とりとめのない感想はいつまで経っても思考は発散するばかりだし、妄想の域を出ないのでこの辺りにして、次の作品に進むことにしよう。

  • –メモ
     動的平衡、絶えず破壊と複製を繰り返すことによってあたかもそこにずっと存在してるように思われるものの、実際それを構成している物質は入れ替わり続けている。壊された部分をずっと自己修復し続けることによって動的平衡が保たれているのはなんとなく感覚に合うけれど、壊れそうなところを先に自ら壊して修復するというのはなんとなく理解しづらい。壊れたことがわかってから修復するのでは間に合わないのだろうか。それとも生物が自らエネルギーを作り出すプロセスの時間と工程に関係しているのだろうか。
     動的平衡。言い換えると状態とか現象だろうか。生命という存在も一時的な現象に過ぎない。そんな感じかな。でもだとしたらなぜ人は自我を持つのだろう。自我とは物質ではなく、信号の流れの秩序に過ぎないのか。もしかしたら体内で分子が変化するときにでる余分なエネルギーの揺らぎに過ぎないのかもしれない。
     エントロピー増大の法則をそれに抗おうとする秩序。その中間にあるような相補性。なぜエントロピーは増大しようとするのだろう。それとあたかも相補性をなすような秩序とはなんだろう。思考・自我・人間という現象はエントロピー増大の中に入り込もうとした秩序の果ての姿のように思えてならない。
     ずっと生命はビリヤードのタマが連鎖的に衝突を繰り返して動き回るように偶然と必然の産物で出来上がっているものだと認識していましたが、その認識は少し改めた方が良いみたいだ。"動的平衡"この言葉に込められた意味を再認識させられるのに、狂鼠病の話はとてもインパクトがあった。時間すなわち成長の過程で生命は動的平衡を常に保ちながら次のステップに移行しており、大人のマウスが持っている遺伝子情報をわざと消して、生まれた時からその情報が欠落していたとしても動的平衡が保たれればちゃんと成長できるという。これが真実なのだとすれば自分の認識していた生命はとても薄っぺらなものだと言わざるを得ない。生命はただビリヤードのタマが弾かれた結果などではなく、その後ろに二重三重にもプロテクトされた生き残るためのプロセスを備えているらしい。

生物と無生物のあいだ (講談社現代新書)

生物と無生物のあいだ (講談社現代新書)

福岡伸一「世界は分けてもわからない」

最近新書が出て書店の本棚で見かけることが多いのであえてちょっと前に出たものをチョイス。

 冒頭、プロローグからとても詩的な始まりで本当に科学系の本なのかと思うくらい人物にのめり込んでしまうところだった。まだ冒頭数ページだが文章から濃厚さが感じられる。  第1章は丸々詩的な感じで終わった。星の輝きを人間の眼球が捉えられる話などはとてもロマンチックだった。
 終始文章がとても文学的で科学系の本とは思えないような表現で満たされている。一つの動作・所作を表す表現がとても豊かでその動きがありありと眼に浮かぶようだった。
 途中から文章の様子が変わってきて物語じみた感じになっていって気づいたらある科学者の捏造の歴史になっていた。文章構成が突飛で小説・科学の両要素を見事なバランスで配分してあった。まるで著者の心情をそのまま文章にしたような印象を受け、物語として科学を、現在の人間の限界を、人間の探究心を、未知なものに対するアプローチを壮大なスケールから著者個人の願望まで"パワーズ・オブ・テン"で描かれているようだった。
 著者は須賀敦子という作家について評して、こんなことを言っている。"彼女の文章には幾何学的な美がある。柔らかな語り口の中に、情景と情念と論理が秩序を持って配置されている。その秩序が織りなす文様が美しいのだ。"この評を踏まえて、私がこの本の感想を書くと以下のようになる。この本の文章には一見バラバラでとても不安定なバランスの上に成り立っているような印象を受ける。美術品の話から著者の記憶、ある科学者の捏造事件へと話は次々に飛んでいき全体像だけ鳥瞰しようとすると捉え所がなくなってしまう。しかしよくよく考えてみると著者の一貫した意見、この本のタイトルにもなっている"世界は分けてもわからない"が、パワーズ・オブ・テンをキーワードにして語られているとても広く・深い読みがいのある本だと思った。

世界は分けてもわからない (講談社現代新書)

世界は分けてもわからない (講談社現代新書)

諸富祥彦「人生を半分あきらめて生きる」

まとめアプリで記事を見かけたので購入。特に何かを諦めるつもりもないけど、いつのまにかあきらめてしまわないようになれば良いなと思って読んでみる。

 何かをあきらめるためには何かに執着する必要があると思うけど、プロローグに上がっている例をみる限り作者自身があきらめたものと現代の若者があきらめているものって明らかに異質な気がした。あきらめる価値のあるものとそもそもあきらめるという言葉すら似つかわしくないどうでもいいものがあるだろう。仕事も、友人もそうだね。  本当にあきらめたいなら人生そのものをあきらめれば良い。人生をあきらめず他のものをあきらめているのなら、それはなんのためだろうか。生き残るためか。生き残ることになんの価値がある。苦しくても踏ん張って、頑張ってその先に見えたものに生きている価値はあるだろう。最初から生きるためにあきらめるというなら全てが矛盾している。生きながらにして生きていないような感じだ。
 まだ2章までしか読んでないのでこの後は違うかもしれないが、ここまでは兎に角書いてあることが薄っぺらくて嘘くさい。日本が将来財政的に破綻するだろうから絶望してる人間なんていないと思う。
 生きるために生きるためのテクニックを駆使する行為ってどうしてこうも気持ち悪いんだろう。吐き気がしてきそうだわ。税負担のための結婚の方がこの本の主張する生きるテクニックよりもよっぽど真っ当な気がする。
 この本はゴールが見えてしまったら面白くないと思うような人にはまったく価値のない本みたいです。普通に時間の無駄だったから途中から流し読んだ。

人生を半分あきらめて生きる (幻冬舎新書)

人生を半分あきらめて生きる (幻冬舎新書)